2022,11,30, Wednesday
フイを付かれた感じで、『COVID-19(新型コロナウィルスの正式名)』に感染してしまって、周りに大変な迷惑をかけてしまいました。ドタキャン出来たスケジュールはまだしも、失念していた予約もありました。これが本当のドタキャンだが、申し訳ありませんでした。私の場合は祝日明けの24日、近くの耳鼻咽喉科で抗原検査陽性であることを告げられた。
病気なんだろうが、直接の効果があるという新薬の投与はなかった。素人見で、一般的な『かぜぐすり』だと思う。一日3回投与して、一週間分が処方されている。香川県からのホームページを介しての広報では、私のような自覚症状がない70歳以上の者は、5日間の自宅待機が要請されている。私は4回の予防接種等、高松市の方針に従い予防対策をしていた身ではありました。 今日は、まず感染したことを反省として書いておきます。感染前1週間は、前半は自宅会食だったが、週末からかみさんと外泊した。かみさんも同時感染と言われたので、感染元はこのあたりの行動が原因かと思われますが、感染は自分の体力など全て己の責任。詮索するモノではありません。私の場合は、この後が問題行動でした。 週明けは、本当に久しぶりに上京しました。宿泊の部屋が、リモートワーク用に改装されたモノで、パソコンモニターまで用意されていました。私は2010年に頸椎症で手術したほど、下向いてコンピュータ作業をしすぎていました。この頸が痛い重い症状が、また出てしまいました。会社ではそれなりの対策をして、待合画面には二人の百笑がほくそ笑んでいます。外での作業が1週間連続という環境は、近年ありませんでした。 平熱が36.7度最高値で、比較的人より高熱ですが、日頃『ポカポカ体温』に慣れているからこそ、1~2度高いコロナ熱には首回りの筋肉がダメージを受けて、首が全く左右ゼロ、前後数度可変に凝り固まってしまいました。私からすれば、このような首の疾患も、『基礎疾患』の一つです。次に困ったのは、これも高熱のためだと思われますが、左足の太もも当たりの恐らく関節かと思われますが、痛くて動きません。 こちらはこれから通院して、原因は分からないにしても、症状は日にち薬で改善することでしょう。陽性宣告後、『私の症状は軽症』として、ウォーキングも腹筋背筋体操も、同じようにやっていました。これが諸悪の入口でした。やはり感染後は穏やかに、人間らしく療養していたら、数日間の身体が動かない苦痛にはいたらなったかと思っておおいに反省しています。 |
2022,11,28, Monday
盛和塾生には通い慣れた、盛和塾世界大会が行われた国立京都国際会館で28日(月)、京セラ創業者で8月24日死去した稲盛和夫名誉会長のお別れの会が行われた。午前は親交のあった著名人らが献花のために出席し、午後は一般参加者が参列した。京セラを今日までの企業に生み育て、KDDI設立や日本航空再建を手がけた戦後を代表する経営者の死を悼んだ。私は新型コロナ療養中で、何とも動けない。旧盛和塾生も、何人か集まったことだろう。
日航が経営破綻した2010年当時、国土交通相だった前原誠司氏(衆院京都2区)は、『日本航空の再建時は晩節を汚すリスクを負いながらも、日本を救おうという一心だった思う』と振り返った。稲盛和夫塾長は、日本は二大保守政党の政権のやり取りが活性化を生むとして、野党民主党政権に期待をしていた。自民党を出た小沢一郎氏も、神奈川県横浜市での世界大会には駆けつけて、講演をしていた。 稲盛和夫塾長も律儀な人で、非自民の実力者(当時)の一人だった小沢一郎氏に礼を尽くし、小沢一郎氏もまた『人たらし』で、稲盛和夫塾長にすりすりしていた時代であります。時の政府に異論を言うのは、経営者として当然リスクがある。それでも稲盛和夫塾長は、全国紙一面の意見広告をその就任前後に出していました。 あの時が自民党政権であれば、稲盛和夫塾長は、国土交通相前原誠司氏や再生機構からの依頼は受けていなかったと思う。過去には前原誠司氏の後援会長もやってという。民主党政権の仕事は、稲盛JAL会長就任と尖閣国有化の二つだけではなかっただろうか。とりわけ、JALの再建のトップは稲盛和夫塾長しかいなかったと思うし、それで日本経済も、航空行政もJALの従業員も救われた。 お別れの会は、『京セラ』『KDDI』『日本航空』『京都財団』の共催。喪主は金沢しのぶさん、今日の参加者は3100人だが、12月の開催時にはもう少し集まるように思います。JAL再生応援団は50万人でした。5千人の塾生が、100人の従業員家族関係者を巻き込んで、大応援を繰り広げました。盛和塾は2019年に解散しています。共催にはありませんが、元塾生はそんなことにはこだわりなく、各自が稲盛和夫を葬送しています。 |
2022,11,27, Sunday
2020サッカーW杯カタール大会、日本の第二戦コスタリカとの戦い。日本中が驚いたと思う。初戦で強豪ドイツから金星を挙げた日本は、格下のコスタリカを相手に、試合をさせて貰えず、何だかんだと言っている内に90分の試合が終わってしまった。初戦は後半作戦を変えて2点を奪取した。「何とかしてくれよ」と思っている間に、試合は終わった。『一喜一憂せず』と森保監督も、初戦の勝利の後も心の緩みを警戒していた。サポーターは、『2-0』とか勝手に試合を決めていた。
専門的な試合内容は門外漢の私には分からないが、何と無く全員が疲れ蓄積状態に見えた。海外での国際試合で、中三日はきつい。それも気温が高い中東の地カタール、森保ジャパンは、次のスペイン戦の選手としてこの試合に出さなかった選手もいるのと違うか。監督としての責任は、予選リーグを終えて決勝トーナメントまで、過去一番のベスト8進出が仕事、ここまで来たら森保マジックに任せようではないか。 サポーターもマスコミも、騒ぎすぎだ。ここまでの試合を観ていたら、確かに日本チームの力は上がっている。それがドイツ戦はできすぎ、コスタリカ戦では、並以下の成果しか挙げられなかった。こんなことも勝負の世界にはある。次は普通にスペイン戦をTV観戦してみたい。選手の皆さん、下を向かないで、常にポジティブに前へ。 |
2022,11,26, Saturday
今から150年前の1872(明治5)年10月14日、日本初の鉄道が新橋と横浜の間で開業した。『光臨鐵道開行式』が、横浜で行われた。この式典には明治天皇も横浜まで行幸されて、政府関係者も多く参加したと記録されています。横浜式典会場へ入るのに、新橋からの初乗車であったようです。面白いですね。
1804年英国で初の蒸気機関車が誕生して、1825(文政8)年頃に実用化が進んだ。日本では遅れること50年位、それでも明治維新からわずか5年程度で、実際の路線を走ったのだ。日本人がはじめて鉄道を知ってから数えても20年経たないうちに、大半は外国人の力に頼っていたとはいえ、まがりなりにも鉄道を開業させたのであります。 この快挙に私は、強い関心をもっています。先般の上京時、『東京駅鉄道ミュージアム』で開催されていた美術と歴史展に立ち寄ってみました。印象的だったのは、鉄道関連の絵画が数多く日本の芸術史でこれまで『書画』といわれていたのが、翻訳語として使われ始めた『美術』も、鉄道の導入と機を一にしています 鉄道は富国強兵策として、明治維新政府は、強力に推進してきた。有名な話しですが、大名屋敷の一角は線路敷きの提供が貰えず、海に突き出し線路をつないだ歴史があります。150年前が日本の鉄道の黎明期、ここが何と言って、大きなターニングポイントです。 この続きは、後の日に改めて書きます。 |