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2025,11,11, Tuesday
先の小欄で、11日高松日赤で前立腺がんの検診結果を泉和良先生から聞くと書いたモノで、2~3心配の電話を頂戴しました。結論から申せば、疑いから確定までの確立は50%と言われ、さらなる検査が必要となるようです。心証としては先生はガンを確信し、その治療法を模索するための検査のように思います。ついに来たかと男子、闘いの始まりです。
思えば食道がんの摘出を2021年9月にここ高松日赤で行い4年が経過し、食道がんの魔手より逃れたと思いきや、次は前立腺がんと新しい魔手がやって来ました。考え方によれば、同時に迫られるより一つが終わり、次の魔手のほうがメリハリがあって受ける方は身構えが出来て良いかとも思います。古希を越えて、さらなる難題が体の中から沸き出てきます。 これまでの幼少期(8歳65年前)のヘルペスから始まり、2011年(59歳14年前)の頚椎変形手術、2014年(62歳11年前)から3度の黄斑手術、2021年(69歳4年前)の食道がんと体験してきました。幼少期は別として、還暦を迎える頃から明らかにこれまでの喫煙や飲酒、もっと言えば暴飲暴食が祟りのように責めてきます。若い頃は本当に何も考えず、意のまま欲望のままに過ごしてきた祟りです。 ここまでこの先どのくらい生きるか分かりませんが、仲代達矢氏の訃報が流れています。無名塾で後進の育成に尽力し、93歳の大往生です。かくありたい、この人の年まであと20年、とてもたどり着けそうもないですが、ドクターやスタッフに救われながら自らの出来ることは貪欲に、限りを尽くします。2~3人に心配をおかけました。感謝しております。 |
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2025,11,09, Sunday
2010年から始め、3年に1度開催の現代アートの祭典『瀬戸内国際芸術祭』が6回目を迎えた今年、春会期が4月18日(金)にスタートし、夏会期、秋会期と順調に推移し、ついに本日11月9日(日)フィナーレを迎えた。私も地元開催の全国規模の芸術祭に多く参加したいと考えて、『オールシーズンパスポート』を購入し、10回ぐらいは出かけようと考えていましたが、大阪・関西万博にも邪魔されて、結局のところ今日で3回目です。
遠路東北地方からの信者が、四国霊場八十八カ所巡礼を熱心に今するように、香川岡山の11の島と二つの港を舞台にした現代アートの祭典『瀬戸内国際芸術祭2025』も県外・国外からの見学者が多い。最終日の今日、どこへ行くか考えて初めてとなる『大島』を選びました。『本島』も瀬戸芸では行ったことがありませんが、別の機会に訪島したことがあります。『大島』はほぼ毎週屋島から、全島風景を見下ろしていますが、上陸は人生初めてです。 高松港から無料の客船で30分程度。大島は、高松港の北東約8キロに浮かぶ面積が0.62平方㎞、周囲7.2㎞の小さな島です。屋島の北嶺からは、まさに眼下に見ることが出来ます。日本国内に13ある国立ハンセン病療養所の一つ、『大島青松園』を抱える島です。『らい菌』によって皮膚や目、末梢神経などが侵される『らい病=ハンセン病』は、古くは聖徳太子のころの文献から登場し、明治初期から感染が疑われ、本格隔離療法が確立され強制収容に。戦後になって、医学的治験が確立された難病。 このため患者は、療養所に強制入院させられ、療養所内でも職員や医療関係者から感染源として忌み嫌われて生きて来ました。私も高校卒業するまで、大島青松園の実態は知りませんでした。当時木田郡庵治町(有名な庵治石の産地)の漁港から、定期便が出ていると庵治出身者から聞いていた程度で、今日私が目にしたまでの差別が100年以上に渡り、終戦後もなお続いていたとは想像の範疇を超えて驚きました。とは言いながら、お祭りムードの瀬戸芸の中では、大島は異色だと私も感じていたし、それが証拠に今まで避けていました。 そもそも瀬戸芸構想で2006年、ベネッセホールディングス名誉顧問・福武總一郎氏と香川県知事・真鍋武紀氏からの依頼で、芸術祭の構想に参画した北川フラム(Fram Kitagawa)氏によって、今日大成功している瀬戸芸のテーマ・「海の復権」「じいさまばあさまの笑顔」、信念・「足はしっかりと大地に、目は遠く世界に!」という理念のもと、地域の人々とアーティストが共創する場を重視するという理念が決まります。 単なる小島を舞台とした一過性の活性化イベントに終わらない『大義名分』が確立されて、瀬戸芸には被差別の『大島』と公害の『豊島』の参加がどうしても必要だと言うことになり、構想の確立した2010年に初回が開催されました。北川フラム氏の思想とアート観のうち、地域との関係は「アートは地域の課題を可視化し、外部との接点をつくる装置である」と言う考えと、ハンセン病回復者の記憶にも記録にも残し風化させないで欲しいという願いから双方の承諾が得られたのではないか。 豊島は1980年来の高度経済成長のツケとして、『産業廃棄物(公害)の島』になってしまっていました。ここの復権の意味から、豊島には大規模な観光資源が投下され、『負の島』のイメージはすっかり腐食されました。同時進行の大島ですが、騒がれて参加した割には、瀬戸芸の作品もここまでの結果と反省は込められていますが、ではこれからどうするという豊島のような明確な方向性は感じられませんでした。 静かに時の経過と共に『普通』に復元すると言うのが北川フラム氏の考えかも分かりませんが、今ひとつ、次が見えません。とは言いながらこれまでの『過去』は、痛いほど分かりました。今日は頂いた資料から私が考えたことで、回復者(元患者)さんと話したわけではありません。「そっとして置いてくれ」と言っているのかもしれません。また全部の意見のベクトルが一致しているかどうかも、分かりません。 今を生きているわれわれが、大島青松園を風化させないと強く思うことは、折角至近なところで展開されているアンチテーゼですから、大いに心奥に仕舞い置き、元患者さんに詫びるべきはそうして、われわれ詫びる手段を持たない者は、2度と同じ誤りを犯さない判断が求められよう。特に印象深かったのは、『os01』から『os03「Nさんの人生・大島七十年」田島征三作』に書き留められた氏の訴えだ。 長島の園長だった光田健輔は、“救らいの父”として文化勲章授与者だが、多くが批判し、こんな文章も「氏は大島を浮浪患者ばかりだから悪い、とボロくそに言いよった」(入所して85年大島の生き字引を呼ばれた磯野常二さんの言葉)とこけにしている。このとどめが、先の田島征三氏の言葉だ。光田健輔(みつだ けんすけ)は、日本のハンセン病対策に生涯を捧げた医師であり、国立長島愛生園の初代園長として知られています。「救らいの父」と称され、1951年に文化勲章を受章しました。 光田健輔氏は、ハンセン病患者の医療体制整備と療養所の設立に尽力。また患者の生活改善と社会的支援を推進したとして、文化勲章(1951年)、ダミアン・ダットン賞、正三位、勲一等瑞宝章などを受章。一方で患者の強制隔離政策を推進し、「らい予防法」の制定に深く関与。断種手術の実施や、所内結婚に条件を課すなどの人権問題が指摘されている。また治療法が確立された後も、隔離政策を支持し続けたことへの批判もある。 光田は「ハンセン病患者を救う」ことに強い使命感を持ち、医学と行政の両面から対策を進めました。その一方で、当時の社会的偏見や医学的限界の中で、患者の自由や尊厳を制限する政策を正当化したことが、後世に議論を呼んでいます。 彼の存在は、日本のハンセン病政策の「光と影」を象徴する人物とされています。 秀でた人でなければ、文化勲章や勲一等瑞宝章は貰えない。叙勲の端くれとして、考えさせられる田島征三氏の言葉だ。あえて写真を貼っておきます。お読みになって。あなた様はどのようにお考えでしょうか。現代アートの祭典『瀬戸内国際芸術祭』に、もう一つの意義を感じた2025ファイナルでした。 |
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2025,11,08, Saturday
何とも劇的な、幕切れだった。100分の死闘を繰り広げた後のPK戦、雰囲気は後半終了間際で追いついた寒川有利の流れ。この流れに棹さしたのが、高松商ゴールキーパー川西君。やっと自分の得意分野がやって来たと言わんばかり、表情は明るい。その川西君が、相手寒川のペナルティーキックを2本目から2本止めた。計算され尽くした川西キーパーの、ファインプレーだった。高松商は12月28日からの、全国大会への出場が決まった。
8日午後1時35分から、高松市生島町の県営球技場で、高松商―寒川の決勝が行われ、高松商が4年ぶり25回目の制覇を果たした。決勝での顔合わせは9年ぶり2度目。この時も高松商が、延長を終えて0-0からのPK戦ーを4-3(5本勝負)で制して優勝している。追い上げムードの寒川に、高松商川西キーパーがキャプテンマークを左腕に巻いて2本止めた。結果4-1で高松商が全国大会へ出場する。 前半40分高松商が押し気味にボールをまわしたが得点に至らず、後半23分、MF泉が同じMF櫨林のパスに抜け出し、先制ゴールを決めた。その3分後には、ショートコーナーキックからMF櫨林のクロスをDF金光が頭で合わせた。高松商が2点をリードし、これで勝ったと思った30分過ぎ、王者寒川のMF藤原、終了間際の39分にDF下川がゴールを奪い、同点になってしまった。勢いは俄然寒川有利。 延長戦でも決着せず、PK戦へ。先蹴りの高松商は5人の内4人全員が成功し、一方高松商GK川西が2と3本目のキックを止めた。5本目を蹴らずして4-1で高松商が勝った。歓喜に沸いた瞬間、寒川の連覇が潰えた。高松商応援団は、歓喜に包まれた。川西君は、良い顔していました。川原寅之亮監督も、子供の様に弾けていた。 恥ずかしながら今日初めて、高松商サッカー公式戦を見に行きました。同窓会紫雲会会長として、何とも申し訳ありませんが、初めてです。スタンド側は、『関係者以外禁止』と書かれていたモノで、反対の芝生席へ回りました。なるほどサッカーの応援は、こうしてやるのかと実感しました。芝生席は一人だと、折りたたみ椅子があれば快適です。 もっとも本当の応援団には、椅子など必要ありませんね。前後半の40分間と、延長10分×2の100分。応援団は、まさに飛び跳ねて応援しています。チィアーの20人弱も、休む間なし、これは野球の応援より疲れます。おめでとうございます。同日開催の全日本高校選手権(春高バレー)県代表決定戦は、フルセットの末逆転で負けました。春高バレー出場はなりませんでした。 |
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2025,11,07, Friday
四国新聞『残したい香川』で、標題のどじょう汁が取り上げられている。四国新聞は取材記事が少ないとか、地域の話題しか入っていないとか、インテリ層の多い香川では酷評だ。私は読者フアンの一人で、朝食時の四国新聞は実に楽しみだ。今朝は、『どじょう汁』がクローズアップされている。全国各地に『どじょう汁』があることから、香川では『どじょううどん』の呼び名が私もしっくりくる。
幼少の頃は、農業用水路や井手が石崖づくりで、昨今のような三方コンクリートではなかった。今のようになっては、どじょうやそれ以外のフナやコイ、ザリガニの類いも生息できない。残念だがそれでも香川県の東讃、さぬき市造田町当りにはその風習と飲食店が残っている。もう一つ、県南部綾川町付近にも聖地がある。綾川町でのどじょう汁催事には、公益財団法人オイスカ四国研修センターの海外研修生も招待される。 大きな鍋で振る舞われるが、その中には里芋と油揚げ、うどんが必ず入っている。綾川町当りはうどん発祥の地として有名だが、古くから『どじょううどん』だった。元麺職人からすれば、生のうどんを鍋に入れてこそうどん独特の粘りが、どじょうと絡まって、鋭も言えない味を醸し出す。これに地元の味噌が味を深くする。これぞまさに讃岐のどじょう汁かどじょううどんかは争わず、郷土の味だ。 県産どじょうが激減して、今では北海道や朝鮮半島・中国産も手に入りにくいと聞いているが、昔から貴重なタンパク源と言われていた。滋養強壮剤や精力剤としての効能があると、近所の長老に言われたモノだった。しかしどじょうの顔を見ると、食するにはためらいも出る。精力源だと割り切って、大いに食べたいものだ。どじょう汁かどじょううどんかは別として、日本の郷土料理には違いない。 |

