2018,09,19, Wednesday
平成30年9月15日(土曜日)から17日(月曜日・祝日)まで、 各日午前9時から午後3時まで特別名所栗林公園内の日暮亭と商工奨励館において、高松商高など県下6校がお手前を披露しました。私は17日(祝)、日暮亭で行われた母校の茶席へ駆けつけました。平成24年度から開催して今年は第7回ですが、昨年は台風のために中止になりました。
栗林公園は、長い歴史を有する庭園として、様々な日本文化を伝える場としての役割を果たしてきました。初代徳川高松藩主松平頼重公の功績はあまた多くありますが、中でも特に茶の湯文化との関わりは深く、今も月釜や季節の茶会などを開催しています。このような茶の湯文化を若い世代にも広げるため、県内にある高校生による茶会を開催しています。 また私の所属する「高松栗林ライオンズクラブ」も、この特別名所栗林公園から、その名を頂いています。公園入口には、高松栗林ライオンズクラブが昭和42年クラブ5周年記念として寄贈した「石碑」があります。日本三大名園(後楽園・兼六園・偕楽園)を凌ぐその上に位置する、「特別名所」と県民は考えています。 話しを戻しますが高松商業高等学校は、武者小路千家 官休庵です。茶席は部員数からか、小さな「日暮亭」です。私もこのくらいのサイズが、ちょうど良いと思います。ここへ来ている人にお茶人もいると思いますが、多くは、関係者ではないかと拝察します。改まったというより、比較的話もしやすい環境で、松平頼重公が武者小路千家 官休庵を支持していたと参加者から蘊蓄がありました。 私も多くの流派があるように聞いていますが、それはともかくとして、高校生で茶道のイロハに接することは、将来いろいろな場面で学びが生きると思います。高商の部員は14名と聞きましたが、全校生が減少する中で、各部とも部員の取り合いをするくらい、運動部・文化部とも部活動が盛んです。後輩が一生懸命に励む姿は、実に嬉しいものです。 茶席の主客を亭主と呼びますが、この席は観音寺からひ孫(10歳)に曳かれてきたという男性でしたが、実に上手く部長の説明を引き出していました。やはりその道の造詣が深くなると、次々に学ぶことが多くなるのだと思いますが、小学4年生から慣れ親しむと、将来が楽しみです。思わず私は彼に向かって、「高商は(商業高校は学区がない)観音寺からでも入学出来るから」と、見込み客にエールを送ったところです。 急いで帰る途中に、白井美昭先輩(43年卒)に遭遇してしまい、先輩は公園内を歩いているようですが、この秋の高商野球に話しが及び、捕まってしまいました。残念ながら15日の高商初戦は観戦出来ませんでしたが、白井野球評論家は、今年も神宮球場へ行こうと破顔一笑。3年前(2015年11月17日)に高商が神宮大会を征した時の、試合観戦馬鹿者3人組の一人です。勿論一番の馬鹿は、私でありますが。 |
2018,09,18, Tuesday
国土交通省がまとめた2018年の地価調査(基準地価・今年7月1日現在)は、全国平均が全用途で27年ぶりに下落から上昇に転じたと報道されている。本日私も、商業地の土地をお持ちの地主さんから電話を貰った。価格についての相談であったのですが、最後に、「仏生山町は市民病院が来て、地価上昇ですね」と尋ねられた。私の立場では辛いのだが、「残念ながら横ばいで上がることはない」と答えたところであります。
報道では地方も上昇という活字が踊るのだが、それは札幌・仙台・広島・福岡などの政令都市を中心とした地方都市の話しで、高松のような中核市にまでは、プラスの要因は少ない。それでも高松でさえ、「ドーミ・イン」や「クレメント・イン」のような中規模のホテル建設が進んでいる。すべてが土地の購入ではないが、インバウンド効果は、北海道の倶知安町など田舎市町にも一部及んでいる。 かたや、地価上昇が景気好転から来ているという説もあるが、これはにわかに信じがたい。産業構造が大きく動き、自動車や太陽光など基幹産業は生産基地としての工場、販売基地としてのオフィースビルも必要だが、液晶TVや白物家電の生産地は、働く機会さえ奪われている。香川県でも、坂出市のコスモ石油工場が、千葉県に統合されて久しい。 横浜や尼崎など、首都圏や大阪圏の周辺、その区画数200~300という大規模団地でも、過疎化が進んでいる。住んでいる家が2~3割、そして住民の年齢が後期高齢者、また独居老人であることが共通項で現存している。昔のベットタウンで、当時の購入価格が8千万円、確かに一時的には1億円の評価も付いたところでも、今は2千万円でも売れない。 私は人口増がないところの地価は、まず値上がりしないと考えている。住宅地で、高松市内南部の多肥上町・多肥下町などは小学校の校舎が足りずに増築が進んで、校庭が別の所に新設されるような現象が起こっている。これは田んぼを潰して宅地造成が原因だが、それでも横横へ広がる宅地開発は、ほぼ同じ価格で広がっている。 平成3年のバブル崩壊までの土地神話は、もうどこにもない。当時の「取引事例比較法」で、あそこが坪10万で売買されたから、ここは坪11万円だ」とはなっていない。あそこが10万円なら、ここも10万円となっているのが現状だ。そして30年前に購入していた大規模団地の1区画、当時1500万円で購入したものが、最近売買した価格は750万円。 価格は相場、その時代の価格で売買される。これは商取引の原則で、どうすることも出来ない。しかし、不動産業にたずさわる者の一人として責任を感じる最近の自然災害。もっとも自然災害自体は、人知ではどうすることも出来ない問題だが、宅地造成工事で火山灰を含んだ泥弱な土を盛土したり、山の麓深くまで開発して、昨今の想定外のゲリラ豪雨だったり、地震による液状化現象を招いたりしている。 過去の経験や法律に基づいてなされる工事で、法規面では問題ないかも知れないが、倫理面ではどうだろうか。自分で住んだり、家族や親戚に奨めるだろうか。食べてなくなる商売ならまだしも、われわれの仕事は、「残る」という側面を内在している。もちろん、利益を上げながら従業員を雇用し、納税や社会貢献に繋がるというプラスの仕事であれば良いのだが、手がけた土地が災害地のようになれば、そこには建物が建っていて、購入者の人生まで壊してしまうことになりかねない。 |
2018,09,17, Monday
私の次男で、市内東山崎町に不動産事務所を構える㈱ライブイノベーション代表・松野誠之(のぶゆき)が、東かがわ活勢隊(上原養敏代表)らと手を組んで、東かがわ市馬篠(うましの)の、馬篠漁港至近の一戸建て住宅を利用して、民泊新法の範疇に入る民泊SETO家(うち)TSUDA(津田)を始めようとしている。本日は営業開始前のお披露目会で、近しい人が集まっています。
民泊新法(住宅宿泊事業法)の施行から、3ヶ月が経過。空き部屋などに、旅行者を有料で泊める「民泊」の客室稼働率が55%前後となっているという。全国の旅館の平均稼働率39%より高く、ビジネスホテルの76%より低い値となっている。エアビーの物件掲載は、民泊新法に抵触する物件の削除が進み、掲載数が減っているが、訪日客は増えていて、なぜか稼働率は横ばいと日経新聞に掲載されている。 私も津田の物件を拝見しましたが、海の近くの別荘仕様で、トイレが三つもあり、その内一つは、浜から上がってそのまま使えると言う優れもの。1階が多目的空間で、ボートやボードの手入れとか、趣味の世界が広がる空間。中2階に台所とリビング、そして居室が畳の間であります。大人が7~8人宿泊出来て、料金は一人4千円~5千円といったところ。大勢での使用が、お得のようです。 今日のお披露目では、雨が降ったために多目的空間でバーベQをやっていました。関係者が大勢、集まってくれています。9月3日(月)の四国新聞にも、「民泊で体験型観光提案」として大きく取り上げられていました。活勢隊は、訪日外国人客らをターゲットに、体験型観光を提案。まずは1次産業のトマトや大内パセリの収穫から、それらを使って料理し、提供する6次産業化を目指している。 ㈱ライブイノベーションは既に高松市北浜町で、旅館業法の簡易宿所の許可を受けて営業をしています。会社からすれば2棟目になりますが、第1棟はJR高松駅に近く、高松へ来た外国人観光客を中心に、民泊新法に言う営業180日の制限を受けませんが、第2棟目の物件は、180日制限の対象となります。息子に聞くと、旅館業法が厳しくなったことも影響しているようであります。 申込みは、民泊仲介サイト最大手の「エアビーアンドビー」を使っています。この2号店をモデルケースに、軒数も体験プログラム(目の前に瀬戸内海が広がっていることから海水浴や海釣り、バーベーキュー=今年はもう終わったが)も増やしていく考えで、「市内には空き家が沢山ある。まずはモデルケースとして成功させて、市の交流人口増加につなげていきたいと意気込んでいます。 場所は、高松自動車道「津田東インターチェンジ」から下道・県道津田引田線を右に取り、最初の信号を左折する。突き当たり近くに「東讃漁協馬篠支所を左に曲がれば、100m程度左に茶色い建物がある。高松中央インターチェンジから、20分で現場へ到着する。企業や大家族、ママ友の集まり等が見込まれている。不動産有効活用の一策であることには、間違いがない。 |
2018,09,16, Sunday
仏生山町探検隊の第2段が、「法然寺を知ろう」という企画でした。勿論地元民ですから、法然寺の存在の一部は知っています。しかし、本格的に住職から聞ける法然寺も、これまた楽しみで、16日(日)10時半からのイベントに出かけました。と言うものの、20分ほど遅刻をしてしまい、説明はほぼ終わっていました。現場見学は、これからです。
法然寺は、徳川松平家の菩提寺で、初代松平頼重公以下、ほぼ全藩主および関係者の墓がここ法然寺にあります。鎌倉時代建永2年(第83代土御門つちみかど天皇1207)、法然上人御年75歳で四国に流されてお住みになった小松庄生福寺を高松藩祖松平頼重公がこの地、仏生山に移転復興して代々の菩提寺としたものです。 徳川家康公の孫であり、水戸の徳川光圀公の実兄にあたる頼重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国の後、寛文8年(第112代霊元れいげん天皇1668)6月、竹井齋庵を奉行として、この地に6万5千余坪を劃(かく)し2年余の歳月を費やして33門、24宇の仏閣僧房を建立しました。 この話を聞いて、不動産屋は6万5千余坪の土地は果たしてどのくらいの大きさか、好奇心がモリモリ。ゼンリンの電子地図を使って、間違っているかも知れない6万5千余坪(約22万㎡)を再現してみることにしました。もう一つのきっかけは、参加者質問の中で、滕神社と法然寺の二つの山は、雌雄山だと言うのを聞いたからです。滕神社と法然寺の蜜月関係は、滕神社の多田光晴宮司からも聞いていました。 大雑把な概算だが、法然寺南端の墓所から、昭和乙女の像手前の細道を下がって県道三谷香川線に出る、法然寺北門付近から「仏生山郵便局」を目指し、突きって「野口うどん」さんを越えて市道の信号交差点へ出る。ここを南進して、前池(まいけ)堤の「延命地蔵」へ、前池沿いに元の位置を結ぶとその面積が、22万6千㎡ほどになる。勿論ちきり神社もすっぽり含まれている。 法然上人自作の阿弥陀如来および上人の真影を本堂に安置し、また上人と松平家の廟瑩を山頂に築いて「般若台」と名付け、壇下に来迎堂をもうけて、弘法大師自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、「常念仏長時かかさず執行致す可し」と定められました。これにより、法然寺は名実ともに浄土宗四箇本山に準ずる巨刹となり、山号を仏生山、院号を来迎院、寺号を法然寺と呼ぶことになったのです。 また京都嵯峨の「立ち釈迦」に対して、「讃岐の寝釈迦」で著名な三仏道の釈迦像と彫刻群は他に類例がなく、さらに来迎堂内の二十五菩薩立像群は極めて珍しいものであります。仏生山町の誇り、宝の一つが法然寺であります。そうそう忘れるところだった、細井住職の話しにもあった「仏生山町最後の素麺どころ松野製麺所(わが家の家業)」の麺が、現在境内の「竜雲うどん」となっている。 そして私の母は10年間、竜雲学園で指導者という名目で働かせていただき、その中の老人介護施設「竜雲舜虹苑(しゅんこうえん)」で息を引き取った。関係性の深い、大恩のある法然寺・竜雲学園であります。 |