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浄土宗仏生山来迎院法然寺を知ろう
仏生山町探検隊の第2段が、「法然寺を知ろう」という企画でした。勿論地元民ですから、法然寺の存在の一部は知っています。しかし、本格的に住職から聞ける法然寺も、これまた楽しみで、16日(日)10時半からのイベントに出かけました。と言うものの、20分ほど遅刻をしてしまい、説明はほぼ終わっていました。現場見学は、これからです。

法然寺は、徳川松平家の菩提寺で、初代松平頼重公以下、ほぼ全藩主および関係者の墓がここ法然寺にあります。鎌倉時代建永2年(第83代土御門つちみかど天皇1207)、法然上人御年75歳で四国に流されてお住みになった小松庄生福寺を高松藩祖松平頼重公がこの地、仏生山に移転復興して代々の菩提寺としたものです。

徳川家康公の孫であり、水戸の徳川光圀公の実兄にあたる頼重公は法然上人を追慕して浄土宗に帰依し、高松入国の後、寛文8年(第112代霊元れいげん天皇1668)6月、竹井齋庵を奉行として、この地に6万5千余坪を劃(かく)し2年余の歳月を費やして33門、24宇の仏閣僧房を建立しました。







この話を聞いて、不動産屋は6万5千余坪の土地は果たしてどのくらいの大きさか、好奇心がモリモリ。ゼンリンの電子地図を使って、間違っているかも知れない6万5千余坪(約22万㎡)を再現してみることにしました。もう一つのきっかけは、参加者質問の中で、滕神社と法然寺の二つの山は、雌雄山だと言うのを聞いたからです。滕神社と法然寺の蜜月関係は、滕神社の多田光晴宮司からも聞いていました。

大雑把な概算だが、法然寺南端の墓所から、昭和乙女の像手前の細道を下がって県道三谷香川線に出る、法然寺北門付近から「仏生山郵便局」を目指し、突きって「野口うどん」さんを越えて市道の信号交差点へ出る。ここを南進して、前池(まいけ)堤の「延命地蔵」へ、前池沿いに元の位置を結ぶとその面積が、22万6千㎡ほどになる。勿論ちきり神社もすっぽり含まれている。



法然上人自作の阿弥陀如来および上人の真影を本堂に安置し、また上人と松平家の廟瑩を山頂に築いて「般若台」と名付け、壇下に来迎堂をもうけて、弘法大師自作の阿弥陀如来ならびに二十五菩薩を祀り、「常念仏長時かかさず執行致す可し」と定められました。これにより、法然寺は名実ともに浄土宗四箇本山に準ずる巨刹となり、山号を仏生山、院号を来迎院、寺号を法然寺と呼ぶことになったのです。



また京都嵯峨の「立ち釈迦」に対して、「讃岐の寝釈迦」で著名な三仏道の釈迦像と彫刻群は他に類例がなく、さらに来迎堂内の二十五菩薩立像群は極めて珍しいものであります。仏生山町の誇り、宝の一つが法然寺であります。そうそう忘れるところだった、細井住職の話しにもあった「仏生山町最後の素麺どころ松野製麺所(わが家の家業)」の麺が、現在境内の「竜雲うどん」となっている。

うどんの並びは竜の形をしている

そして私の母は10年間、竜雲学園で指導者という名目で働かせていただき、その中の老人介護施設「竜雲舜虹苑(しゅんこうえん)」で息を引き取った。関係性の深い、大恩のある法然寺・竜雲学園であります。



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| 社長日記 | 02:26 PM | comments (0) | trackback (0) |
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