2021,03,16, Tuesday
自然災害がこう頻繁に起こってくると、一般家庭でも非常食の備蓄が3~7日分ぐらい必要かと考えます。一番の候補はずばり、『パックご飯』ではないかと思い、近くのスーパーへ出かけてみると予想以上に『パックご飯』が充実していて、驚かされます。地元米も商品として並んでいるのが嬉しい。私が見たのは、「常温保存で賞味期間が8カ月程度」。食べるときは、電子レンジで2分程度、湯煎では14分とある商品には書かれていました。実に簡単便利、美味しそう。
電子レンジなどで温めて食べるパックご飯の国内生産量が、右肩上がりのようだ。5年連続で増加し、2020年は22万トンを超え、過去最多となった。新型コロナウィルスの感染拡大のため、家で食事する機会が増え、手軽に食べられるよう常備する傾向が強まったことなどが背景にあると思われる。食品メーカーも市場拡大に、力を入れている。驚くことに、そのパックご飯の見せ方が実に上手い。 農林水産省の食品産業動態調査では、レトルト米飯と無菌包装米飯の生産量は、10年には11万8148トンであったが、東日本大震災が起きた11年には災害備蓄用などの需要が高まり、13万6939トンにまで増えた。新型コロナウィルスの影響で消費量が増え、20年には22万4430トンとなり、統計のある1999年以降の記録を更新している。 人口減少で主食用米の消費量が年々減少する中、関連商品では数少ない成長分野になっている。『マルちゃん(東京港区)』ブランドでパックご飯を販売する東洋水産は、18年と19年に製造ラインを増設し、生産能力が従来の1.5倍となった。白米だけでなく、混ぜご飯など今年2月の時点で、約50の商品を展開している。 また『サトウ食品(新潟市)』は、工場をフル稼働して生産している。同社佐藤社長によると、30年前の発売当初は売れなかったが、相次ぐ災害や新型コロナウィルスで利便さや味が認知されるようになったと指摘。「市場はまだまだ伸びるだろう」と期待を示した。日常は米離れであっても、非常時はだれでも『米』を食べる。非常食の賞味期間として、10年20年というのも価値があると思うが、非常時でも美味しく食べるとなると『パックご飯』は、世界中に通じるかもしれない。 さらに全農(JA)がサトウ食品の指導を受けて製造し、47都道府県で販売すると言う。また先の有名企業の『パックご飯』のみならず、地元観音寺市のテーブルマーク(本社東京)からも、下に貼り付けている商品の製造をしている。テーブルマークは加ト吉から事業譲渡を受けて、観音寺市内の工場などで『冷凍うどん』を作っているイメージが強いのですが、工場を併合する予定が既に発表されている。地元産の米も、『パックご飯』になっています。 『パックご飯』の付近には、各種缶詰も所狭しと並んでいます。今時の缶詰は、『缶切り不要プル開フタ』になっていて、どこでもすぐに食べることが出来ます。まず『パックご飯』と『缶詰』の常備で、3~7日は楽しく食事が出来ると思います。パンや乾パンなどより、私は間違いなく『パックご飯』を食べます。美味しいですよね。 テーブルマーク |
2021,03,15, Monday
東日本大震災から10年、新聞特集のように特別扱いをするわけではありませんが、この私設シリーズで、私なりに東日本大震災を総括しています。『地震・津波・原発事故』の三重苦に、昨今は新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、廃炉現場でも四重苦が重く立ちはだかる。地震・津波は昔から日本に多くある災害で、仕方がないと言ってしまえばそれまでのこと。しかし原発事故は、明らかに現代人が引き起こした人災。追って小欄に書きたいと思っている、『新型コロナウィルス』までもが人災かもしれない。
未曾有の大災害・東日本大震災で起こった福島第一原発事故。その対応に当たった職員を描いたヒューマンドラマが『FUKUSHIMA50(ふくしまフィフティ)』。ノンフィクション作家・門田隆将が、事件の当事者たちに取材を試みた『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』を原作に、『空母いぶき』『沈まぬ太陽』で知られる若松節朗が監督を務めた。 2011年3月11日午後2時46分に発生し、マグニチュード9.0、最大震度7という、日本の観測史上最大の地震となった東日本大震災時の福島第一原発事故を描く物語。想像を超える被害をもたらした原発事故の現場:福島第一原子力発電所に残った地元福島出身の名もなき作業員たちは、世界のメディアから “FUKUSHIMA50”(フクシマ フィフティ)と呼ばれた。 世界中が注目した現場では、何が起きていたのか。何が真実なのか。浮き彫りになる人間の強さと弱さ。東日本壊滅の危機が迫る中、死を覚悟して発電所内に残った職員たちの知られざる“真実”が、遂に明らかになる。東日本大震災から、丸10年を迎える2021年。改めてFUKUSHIMA50を観ながら当時のことを振り返って、忘れないでいることは非常に重要であると感じます。 それと同時に、映画だからこそ伝えられる迫力や緊迫感は当時の事故を知らなかった人でも胸に迫るものがあるはずです。「命懸けで戦った人たちがいた事を知れただけでも観て良かった」「映画にして伝えることは大事だと思った」などFUKUSHIMA50を観ることで、当時の事故では何が起こっているのかを知ったり、映画そのものの意義を感じる人が多くいるはずです。私もその一人です。 タイトルにもなっている「FUKUSHIMA50」は、果敢に業務を全うした職員50人という意味で、もともとは海外のメディアが名付けました。反面混乱した現場に、強引に闖入した当時の菅直人首相(いらかん)を演じる役者さんが象徴する日本国政府と、現場が全く分かっていない東京電力本店。根底には『日本の原子力発電所では、メルトダウンなどの重大事故はおきない』という神話が作り上げられていた。 映画のエンディングメッセージに、「10メートルを超える津波などあり得ない」との独白があるが、自然の猛威はヒトの想定をはるかに超えることがある。『慢心』が引き起こした今世紀最悪の原子力発電所事故。後世に語り継ぐことは勿論のこと、まだ終わったことではありません。この事故からドイツなどEU(欧州連合)諸国は、原発の廃止を始めました。日本でも直ちに廃炉が好ましいのだが、緩やかな廃炉でなければその莫大な費用が稼ぎ出せない。 『はずがない』ことばかりが現実問題化する現場。現場作業員は何としてもこの現実を、最少限度の災害に抑えようとする。『電源喪失』という、あり得ないことが起こった。今の新型コロナウィルス感染拡大防止対策も、これと同じように暗礁に乗り上げた感がある。緊急事態宣言が続く中でも、人は春の陽気につかの間の癒やしを求めて外出する。もはや政府や小池百合子東京都知事の言う、「STAY HOME」を意に介さなくなっている。 この先廃炉に、100年かかるかもしれない。まず押し迫った『汚染水処理』をどうするか。菅政権は、苦しい判断をせざるを得ないときがくるだろう。政権は先送りすることが常套手段だが、すべての国難がもはや先送りは出来ない状況にある。すべてを自分事と捉えて、考えなければならないのだろう。 人災をあざ笑うように、東京のさくらの開花が発表された。一番早い開花宣言だと聞くが、過去は私の誕生日(4月初旬)頃に咲き始め、東北や北海道は連休中が常識だった。僅か1度の気温上昇だと言うが、自然界はこの1度で雲泥の差を表出している。北海道で稲作が出来るようになったのはプラス現象だが、三陸沖のサンマ不漁などそのほとんどがマイナス現象になっている。自分に、何が出来るのだろう。 |
2021,03,14, Sunday
東日本大震災の津波で失われた海岸林の再生プロジェクトが進められている宮城県南東部に位置する名取市へ、小欄で既に書いたように昨年11月、公立中高一貫教育の高松北高1,2年生30人がボランティア作業のため現地へ行って汗を流したと、本日14日の四国新聞で報じられている。写真が掲載されていますが、良い顔しています。高松北中・高の国木健司校長は、いろいろな非日常に挑戦しています。
国際協力や環境保全に取り組む公益財団法人オイスカ(本部・東京)が、震災発生直後から取り組み、延べ1万2千人のボランティアが参加している一大プロジェクト。国木健司校長の、防災や環境再生を学ぶ研修の一環になればとの呼びかけに、1,2年生30人が手を挙げた。高松北高は、最近『穴吹学園』と『香川大学創造工学部』と交流提携をしている。また公益財団法人オイスカとも、今月19日に提携を予定している。 オイスカの『海岸林再生プロジェクト10カ年計画』は、名取市の海岸線5kmに幅200mで、種から被災農家が育てたクロマツの苗木を、専門の森林組合員が植えて、草抜きや苗木周辺の排水路の補修作業等をボランティアが行うという内容。100haの広大なかさ上げされた土地に、10年間に寄付金10億円を集め、クロマツの苗木50万本を植えるというプロジェクトです。 結果この10年で37万本を植え付けた植栽地で、生徒たちは、スコップを使って苗木周辺の排水路を数時間かけて200mあまりの溝を掘った。「丁寧な仕事ぶりに驚いた。本当にきれいに作ってくれた」とは、オイスカの海岸林再生の担当部長、吉田俊通さん(51)さん。海岸林再生にはまだまだ時間を要するため、「若い人たちの参加が事業の今後を占う。ぜひまた協力してほしい」と話す。 クロマツは極度に水を嫌う。そのため排水路の整備は、なくてはならない作業。それが5kmとなると、機械で出来ないモノでどうしても人海作戦となる。ボランティア活動は、なくてはならないマンパワーと言える。北高の生徒は、「自分たちが行った作業が、希望につながれば」「少しでも地域に貢献できたのなら、うれしい」。 震災発生時は幼かった生徒たちにとって、被災地訪問は「気づきの場」にもなった。大切な家族を亡くしながらも教訓を伝えるため、語り部活動を続ける被災者から聞いたほか、津波で被災した当時の姿が遺構として保存されている高校の旧校舎も訪れた。「自分の目で見て、直接話を聞いたり、体験することで生徒それぞれが思いを巡らせ、被災地への支援や防災を自分事ととらえる機会になったのでは」と国木健司校長は手応えを語る。 過去の小欄 |
2021,03,12, Friday
震災から約1年後の、2012年3月9日に確か香川県住宅課からの依頼で、福島県いわき市からの避難民・市毛啓次桜子さん夫妻の仮住まいの契約を手伝いました。塩江町にある『ホテルセカンドステージ』という宿泊施設に、半年間無料で被災民に住まい場所を提供するという取り組みに、契約書を書いてくれとの依頼でした。
住まうことの光熱費は入居者の負担で、賃料等は無料でした。香川県の呼びかけに、『ホテルセカンドステージ』が応じたモノでした。勿論私も、報酬なしという何とも致し方なしの仕事でありました。報酬がないだけで、立退きなどの契約不履行に対しては責任を負うというモノでした。初めてのケースで、県の対応にブツブツ文句を言った覚えがあります。結果ご夫婦は、6カ月地域を学習して期限終了で退去されました。 ブツブツ文句を言ったのは、その後、継続してこの仕事があると考えていたのですが、その後は不思議な事に、1件もありませんでした。拍子抜けというか、なぜだろうかと考えたのですが、後にも先にもこの件だけでした。その後、新型コロナウィルスの感染拡大に伴いインバウンド客がなくなるまで、このホテルは大変繁盛していました。情けは人のためならず、近くのゴルフ場とタイアップした、東南アジア向けのパッケージツアーが好評でした。 今から3年位前でしたか、かみさんとホテル近くの香川町の『とり松』にいた時、この『ホテルセカンドステージ』のフロント担当の女性が、韓国人数人を連れ立って入店してきました。先に書いたように、インバウンド客が押しかけて来ていて、この日は霧のため韓国から高松空港への着陸が難しいというので、ツアーの本体がリスクヘッジのためバスで関西空港へ移動して、残りの客の夕食に同行したのだと話していました。 ホテルセカンドステージは、塩江温泉の源泉を使い大手企業が内場ダム湖ほとりに建設したモノですが、古くから弊社もお世話になっている喜多維昭氏が買い求めたものであります。所有者はともかくとして、新型コロナウィルス禍が終息した暁には、日本人客も大挙して押し寄せることでしょう。自然に囲まれた、キャンプやバーベQ施設が沢山あるホテルセカンドステージ、被災者救済から次のステージへ移りながら健在であります。 |