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第34回京都賞授賞式
2018年11月10日(土)15時より、国立京都国際会館メインホールで、公益財団法人盛和財団による恒例の京都賞の授賞式が高円宮妃久子殿下の臨席のもと行われました。私たち夫婦も盛和塾枠で参加が許され、遠くからですが、感動の瞬間を共有させて頂きました。確か三度目の参加ですが、夫婦はこれが最後だろうと共に納得しています。



先端技術部門は、アメリカ人カール・ダイセロス博士。贈賞理由は、博士が光遺伝学と総称される、細胞情報を光刺激によって誘導・修飾する新たな学問領域を創成し、システム神経科学の研究方法に大きな変革を起こした。訳が分からない世界で、ただひたすら拍手を送る。5人の子どもさんのうち、2人が参列している。

基礎科学部門から、柏原正樹博士。博士は代数解析学の要となるD加群の理論を基礎から築き上げて現代数学の諸分野へ展開し、多くの卓越した業績をあげた。こちらも全く分からない。地元京都大学で、研究や教鞭に励んでいる。やはり「京都賞」と「京都」の名がつく賞に強いあこがれを持っていたと、受賞者スピーチで話されていた。

三人目は、思想・芸術部門から、アメリカ人ジョーン・ジョナス氏。氏は、パフォーマンスとビデオを融合させた新しい表現形式を創始し、この表現の進化と洗練に尽力した。美術家で、こちらも業績の詳細は分からない。芸な術美術とは、私はとんと縁がない。ただ理解ができないだけなのだが、しかしその人の立ち居振る舞いは、凜としているものを感じる。

授賞式のあとは晩餐会が開催されるが、ここへの出席はなかなか許されない。参加した塾生に聞くと、とんでもない食事ができ来るとか。5回ほど授賞式に出ると、晩餐会へも招待があると聞くが、出席者はタキシードか着物が当たり前のようで、恥ずかしながらこれを持ちない私は、招待されても困る。そんな心配は別にして、今日は塾生食事会も予約し忘れたようで、かみさんとまた地下鉄で帰りました。

食事は、「炭火串焼き串くら本店」。高倉通御池上る柊町、ここはお薦めです。私たちは、三度目でしたが、路地裏でまた迷いました。






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| 社長日記 | 08:36 AM | comments (0) | trackback (0) |
今から436年前欧州へ渡った伊東マンショら4人の使節団
NHK大河ドラマ「西郷どん」で、岩倉具視ら明治政府の欧米使節団が明治6年(1873)に日本を旅発った最初の使節団という扱いで、いままさに近代日本の黎明期と紹介されていますが、「われわれより3百年も前に西洋を訪れ、歓迎されていた者たちがいたのか」、岩倉具視参議を全権大使とするヨーロッパ使節団から思わず驚きの声がもれた。

イタリアのヴェニスにあったイエズス会の文書に、天正少年遣欧使節のことが記されているのが発見されたのです。にわかに信じられない話しでありますが、この本「伊東マンショその生涯」は「マンショを語る会」編著で、伊東マンショ没後400年記念(2012年)に出版されています。私の所蔵は、2017年刷です。何かで、この本を知りました。

勿論ジョン万次郎ら、事故で欧米へ渡ったという話しは聞いたことがありますが、「天正少年遣欧使節」というのは、聞いたことがありません。宮崎県が生んだ英雄として、成都市・日南両市長も本書を推薦しています。県民、ことに未来の日本を担う青少年たちが世界へと羽ばたいて行かれんことを願います。

その本によると、伊東マンショは、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。幼少の頃、薩摩の島津藩に攻め込まれ、日向国(宮崎県)から豊後(大分県)の大友宗麟を頼って落ち延びた。そこには(府内=大分市)異国の船が入り、異国の人も沢山いた。大友宗麟は、若い時キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルと出会い、キリスト教に帰依している。

その影響で、伊東虎千代(マンショ=満所)は、キリスト教の洗礼を受けます。伊東マンショは「天正少年遣欧使節」の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益と書かれています。

伊東マンショは日本史上、日本国と日本人を世界に知らしめ、当時のヨーロッパルネサンス文化を日本にもたらすということでは、最初の人、日欧友好親善の草分けであります。しかも、その43年という短い生涯は清貧、貞潔、慈愛というヒューマニズムの鑑のような生き方でした。

ところが、今でこそこのように伊東マンショが偉大な国際人であったことが知られ、教科書にも紹介されるようになりましたが、実は彼らが当時のキリスト教宣教師たちに育てられ、自ら宣教師として亡くなったため、日本史の中で、特に安土桃山時代後半から江戸時代の長いキリシタン弾圧の中で日本史そのものから消し去られ、その間、日本人の中ではその名を知る人もなかったのです。

先にも書きましたが、明治6年、新政府が樹立された後、日本の新しい法律や制度を作る必要があり、岩倉具視を全権大使とする欧米使節団が派遣されました。そして南欧諸国を訪れたとき、彼らよりも290年近くも前に天正少年遣欧使節が日本から2年半余の歳月をかけてリスボンへ上陸し西欧を訪ね、ローマ法王やスペイン国王などに謁見していることを知らされ、それ以来、学者などを派遣し調査研究をしたと書かれている。

天正18年(1590年)、日本に戻ってきたマンショらは翌天正19年(1591年)、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593年)7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。

慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。




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| 社長日記 | 07:42 AM | comments (0) | trackback (0) |
高知黒潮ライオンズクラブ第1379回例会に
高知は暖かい、このところ全国的に暖かい日が続いているようだが、今日の高知は、実に過ごしやすい。L馬場基尚と二人して、高知黒潮ライオンズクラブのCN記念例会に今年も参加した。確か昨年も、この例会に来たように思う。つまり、高知へはどこかできているようだ。よさこい祭りも、「おわら風の盆」に負けないパワーを持っている。

さて例会では、ビジター挨拶で「みなさまにご心配と迷惑をおかけしました」と私が詫びて、L馬場基尚は乾杯の発声で頭を下げていました。高知黒潮ライオンズクラブのメンバーは、暖かい。われわれは彼らに無理ばかりお願いしている。少し前もう2年になりますが、平成乙女の像の募金も、数名が「よし」としてくれました。ライオンズクラブにあって、ライオンズクラブに関係ないことにも彼らは寛大です。





5年前、当時の清水源太郎会長が突然高松の弊社三条店に来られたのがきっかけで、高松栗林ライオンズクラブL佐久間勝会長が、友好クラブの提携をしたのです。その清水源太郎会長はすでに退会されたのですが、ご縁は続いています。普通組織では派閥があって、中心人物の退会でその縁は終わるものです。

高知人の懐の深さ、寛大な太っ腹、どれ一つ採っても讃岐人のそれは負けています。150年前の明治維新の立て役者を、「薩長土肥」と言いますが、また必ずしも諸手を挙げて喜べる所作ではなかったかも知れませんが、土佐の坂本龍馬をはじめ、数々の偉人を輩出した高知、ここにはやはり何か受け継がれているDNAがあるのでしょう。

そして高知は酒飲みが多いと聞きますが、高知黒潮ライオンズクラブの山本哲美さんは、今日も例会前に8合呑んできたと言います。明日は7:10分始発の東京フライトとか。用件を聞くと、「スーツ」を作るためだけ。世界のブランド品が、例えば25万円が8万円だという。彼らはスーツにかこつけて、楽しい一日を作り出す名人かも知れない。


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| 社長日記 | 09:24 AM | comments (0) | trackback (0) |
平成乙女の像の入魂式が今月18日に現地で
平成25年1月3日の、「萬木淳一先生香川県文化功労者表彰祝賀会&龍雲中同窓会」に端を発した、「平成乙女の像」の建立計画。これまでの「昭和乙女の像」が建立から50年を経過するにつれて、像の痛みが激しくいつ倒壊するかもしれない状況に、作者の萬木淳一先生(当時76歳)自身が見かねて、「命のあるうちに」と訴えたものです。

今日までに、571万円余の募金を同窓生らから集め、550万円をかけて、ついに「平成乙女の像」が立ち上がりました。写真で見るように、像には白い布がまかれ、ミイラのように立ち上がっています。「昭和乙女の像」よりひとまわり小さくはなりましたが、旧像が白セメント造であったのに対し、平成乙女の像は富山県の黒谷美術㈱で、ブロンズ像になっています。

これから先、われわれの鬼籍入りどころか、100年先まで光輝き、この地の安心あんぜんと平和・希望の象徴となることでしょう。この先の計画ですが、今月18日に現地で滕神社宮司らにより入魂式と除幕式を執り行います。10時過ぎを予定しております。現地に椅子などの準備はできませんが、参加自由でございます。大勢の皆様に、100年に1度のラッキーを体感して頂きたいと願っております。

また同時に、記念碑文と募金者芳名板の作製が、進行中であります。いわざわこざら顕彰会(母体は「特定非営利活動法人仏生山魂再開発フォーラム理事長・松野誠寛)では、まだ80万円ほどの資金不足で、18日の式典にはこれまでの募金者のお名前を仮書きしたもので対応したいと考えております。そして募金は継続し、目標達成を待って金属に刻み、こちらも100年絶えられる構造で対応しております。

募金は以下の専用口座で、取り扱っています。募金の心は金額の多寡ではございませんが、諸般の事情を考慮し、1万円以上の募金者のお名前を刻むこととしております。先に1千円、5千円と募金していただいている方も、追加で1万円に達するならば合算処理で対応させていただきます。これまでの大勢の方々の厚情に、衷心より篤く感謝しております。18日が秋晴れの一日でありますように、祈念してこれからの10日間更なる精進を重ねて参ります。

蛇足ですが、振込先:ゆうちょ銀行・記号16330・番号17874501 特定非営利活動法人仏生山魂再開発フォーラム






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| 社長日記 | 09:57 AM | comments (0) | trackback (0) |
家康の遠き道by岩井三四二
徳川家康の死ぬまでを描いた、人気作家の最新作、17年5月に初版1刷発行されている。家康以来徳川270年を守った家康の秘策とは?一言で言うなら、「守成」は「草創」と同様に、いやそれ以上にむずかしいと家康は考えて、己の死後のことを行く末案じて、数限りない秘策を練って、死後までそれを実践するように仕掛けた。

1603年徳川家康、征夷大将軍に就任し、ここに江戸幕府を開く。3 年前(1600年)、家康は関ヶ原の合戦に勝って天下を手にし、後幕府を開いた。つまり徳川家の天下を「草創」したのである。だが「草創」の次には「守成」、すなわち手に入れた天下を無事に永く保ち続ける事業が待っている。信長、秀吉の哀れな最期は、家康も間近に見てきた。

天下は、隙あらば逃げだそうとしている悍馬(かんば)のようなものである。自分が死んだら、残る子どもたちだけで幕府を支えていけるだろうか。なんとも頼りなく思えて、仕方がないのだが。家康は73歳で、元和2年(1616年)4月17日の巳刻(午前10時)に、亡くなったと言われている。人生50年と言われていた時代、今の尺度で計算すれば、優に100歳は超えて長生きしている。

いま徳川の天下に弱点があるとすれば、天下を治める資格である征夷大将軍の位を、朝廷から授けられねばならない、という一点だけだろう。そこだけが、徳川家の自由にならないのだ。だが徳川家が独自の権威をもち、その権威だけで天下のあるじとなれば、朝廷の権威は不要となる。となれば弱点がなくなる。だから神になろうとする家康。

「わしが死んだら遺骸は久能山におさめ、法会は江戸の増上寺で行い、位牌を三河岡崎の大樹寺におき、一周忌がすぎたならば下野国日光山に小堂を建てて神霊を勧請せよ。わしはそこで八州の鎮守神となり、永く子孫を鎮護するであろう」つまり、仏式の葬儀は浄土宗の増上寺で行い、それとは別に遺骸を久能山に持って行って神にする儀式をせよ、そして神になった後、関八州を見渡せる霊場、日光山に鎮座させよというのである。

「東国の大名はよいが、西国が心許なく思うゆえ、わしの像は西向きに立てておき、三池の刀も刃を西に向けて立ておけ」自分の死後のことまで細々と指図した後、家康は逝った。その夜は小雨が降ったが、遺骸は夜中に、近臣数名と梵舜、天海、崇伝らが静かに久能山に移した。神になるためには、遺骸を人に見られてはならない。ために側近の者だけで、運んだのである。

抜群の知力と体力を持ち、恐れを知らず果敢に-倫理観にとらわれず、平気で約束を破り嘘をつくことも含めて-行動できる家康にとっては、どちらかの方法も抵抗なく実行できたのだろう。こうしたことから見ると、家康は「サイコパシー傾向の高い人」、つまりサイコパスではなかったかと思われる。

サイコパスは、猟奇犯罪者を意味するものではない。一般者と脳の働きが違い、他者への共感性や痛みに対する感度が鈍くなっているのが特徴で、そのため恐れを知らず勇敢に動くだけでなく、口が達者でうまく嘘をつき、人を魅了したりもする。本能のままに犯罪に走る悪党もいるが、ふつうの人にはできない危険を冒し、偉業を遂げて英雄と崇められる「成功した」サイコパスもいる。

サイコパスであったから、家康はうまく「律儀者」を装うことができ、三方カ原や小牧長久手といった、敵が何倍もいる危険な合戦に怯えることもなかった。また良心の痛みを感じないので、情け容赦なく豊臣家を滅ぼし、さらには平気で神になったりもしたのだろう。日本史上で、もっとも成功したサイコパス。それが家康である。



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| 社長日記 | 08:53 AM | comments (0) | trackback (0) |
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