2018,11,16, Friday
京都市は15日、京都の近代化に大きく貢献したとして、西郷隆盛の長男で2代京都市長を務めた西郷菊次郎(1861~1928)に特別感謝状を贈呈し、菊次郎の孫にあたる陶芸家、西郷隆文さん(70)が受けとったと報道されています。菊次郎は明治37(1904)年日露戦争開戦前後に、43歳で市長に就任。第2琵琶湖疏水建設など「三大事業」を進め、京都の都市基盤を整備した功績です。
西郷隆盛の子どもについては、私はよく知らなかった。奄美大島に流された時に、島の娘と懇ろな関係になったというのは、大河ドラマで見ました。西郷隆盛には2番目の妻・愛加那(あいかな)との間に2人、3番目の妻・糸子との間に3人の子供がいたようです。菊次郎の「菊」は、隆盛が奄美大島で名乗っていた「菊池源吾」からついたといわれています。 西郷隆盛の長男で、愛加那との間に生まれた菊次郎は、9歳の時に鹿児島の本家に引き取られました。大河ドラマ「西郷どん」でも、そのように描かれています。アメリカ留学を経て、17歳の時に父とともに西南戦争に従軍します。ここで右足に被弾、膝下切断の重傷を負い、叔父・従道に投降しました。同族も敵味方の争い、隆盛の弟・従道は菊次郎の投降をとても喜んだそうです。 留学経験を生かして外務省に入省した菊次郎は、日清戦争後に下関条約によって日本が得た台湾に派遣されます。ここでは宜蘭支庁長として、現地のインフラ整備や教育普及に尽力し、今も現地で敬愛されるほどの功績を残しました。 帰国後は京都市長を6年半務め、発電や上下水道、市電の整備を推進し、近代京都の都市基盤を築き上げます。この功績で、上の特別感謝状の贈呈になったわけです。しかし足の怪我の後遺症のため辞職し、その後は鹿児島で金山の鉱業館長を務め、昭和3年(1928)に67歳で亡くなりました。 日経新聞の片隅の記事ですが、これがきっかけで私の中に西郷隆盛の知らなかった部分に光が当たりました。西郷隆盛と言えば私は、「西郷南洲翁遺訓」へ思考が短絡します。早く親を亡くした子らが、逞しく生き抜いたというのは、嬉しい勇気をもらう話しです。息子から見た西郷隆盛、上野の銅像は西郷隆盛に似てないと妻が証言したというのも聞きました。稲盛和夫塾長は西郷隆盛を絶賛するのですが、息子らからの父親評も是非聞きたい。書かれたものがあれば、ご教授を。 |