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家康の遠き道by岩井三四二
徳川家康の死ぬまでを描いた、人気作家の最新作、17年5月に初版1刷発行されている。家康以来徳川270年を守った家康の秘策とは?一言で言うなら、「守成」は「草創」と同様に、いやそれ以上にむずかしいと家康は考えて、己の死後のことを行く末案じて、数限りない秘策を練って、死後までそれを実践するように仕掛けた。

1603年徳川家康、征夷大将軍に就任し、ここに江戸幕府を開く。3 年前(1600年)、家康は関ヶ原の合戦に勝って天下を手にし、後幕府を開いた。つまり徳川家の天下を「草創」したのである。だが「草創」の次には「守成」、すなわち手に入れた天下を無事に永く保ち続ける事業が待っている。信長、秀吉の哀れな最期は、家康も間近に見てきた。

天下は、隙あらば逃げだそうとしている悍馬(かんば)のようなものである。自分が死んだら、残る子どもたちだけで幕府を支えていけるだろうか。なんとも頼りなく思えて、仕方がないのだが。家康は73歳で、元和2年(1616年)4月17日の巳刻(午前10時)に、亡くなったと言われている。人生50年と言われていた時代、今の尺度で計算すれば、優に100歳は超えて長生きしている。

いま徳川の天下に弱点があるとすれば、天下を治める資格である征夷大将軍の位を、朝廷から授けられねばならない、という一点だけだろう。そこだけが、徳川家の自由にならないのだ。だが徳川家が独自の権威をもち、その権威だけで天下のあるじとなれば、朝廷の権威は不要となる。となれば弱点がなくなる。だから神になろうとする家康。

「わしが死んだら遺骸は久能山におさめ、法会は江戸の増上寺で行い、位牌を三河岡崎の大樹寺におき、一周忌がすぎたならば下野国日光山に小堂を建てて神霊を勧請せよ。わしはそこで八州の鎮守神となり、永く子孫を鎮護するであろう」つまり、仏式の葬儀は浄土宗の増上寺で行い、それとは別に遺骸を久能山に持って行って神にする儀式をせよ、そして神になった後、関八州を見渡せる霊場、日光山に鎮座させよというのである。

「東国の大名はよいが、西国が心許なく思うゆえ、わしの像は西向きに立てておき、三池の刀も刃を西に向けて立ておけ」自分の死後のことまで細々と指図した後、家康は逝った。その夜は小雨が降ったが、遺骸は夜中に、近臣数名と梵舜、天海、崇伝らが静かに久能山に移した。神になるためには、遺骸を人に見られてはならない。ために側近の者だけで、運んだのである。

抜群の知力と体力を持ち、恐れを知らず果敢に-倫理観にとらわれず、平気で約束を破り嘘をつくことも含めて-行動できる家康にとっては、どちらかの方法も抵抗なく実行できたのだろう。こうしたことから見ると、家康は「サイコパシー傾向の高い人」、つまりサイコパスではなかったかと思われる。

サイコパスは、猟奇犯罪者を意味するものではない。一般者と脳の働きが違い、他者への共感性や痛みに対する感度が鈍くなっているのが特徴で、そのため恐れを知らず勇敢に動くだけでなく、口が達者でうまく嘘をつき、人を魅了したりもする。本能のままに犯罪に走る悪党もいるが、ふつうの人にはできない危険を冒し、偉業を遂げて英雄と崇められる「成功した」サイコパスもいる。

サイコパスであったから、家康はうまく「律儀者」を装うことができ、三方カ原や小牧長久手といった、敵が何倍もいる危険な合戦に怯えることもなかった。また良心の痛みを感じないので、情け容赦なく豊臣家を滅ぼし、さらには平気で神になったりもしたのだろう。日本史上で、もっとも成功したサイコパス。それが家康である。



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| 社長日記 | 08:53 AM | comments (0) | trackback (0) |

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