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今から436年前欧州へ渡った伊東マンショら4人の使節団
NHK大河ドラマ「西郷どん」で、岩倉具視ら明治政府の欧米使節団が明治6年(1873)に日本を旅発った最初の使節団という扱いで、いままさに近代日本の黎明期と紹介されていますが、「われわれより3百年も前に西洋を訪れ、歓迎されていた者たちがいたのか」、岩倉具視参議を全権大使とするヨーロッパ使節団から思わず驚きの声がもれた。

イタリアのヴェニスにあったイエズス会の文書に、天正少年遣欧使節のことが記されているのが発見されたのです。にわかに信じられない話しでありますが、この本「伊東マンショその生涯」は「マンショを語る会」編著で、伊東マンショ没後400年記念(2012年)に出版されています。私の所蔵は、2017年刷です。何かで、この本を知りました。

勿論ジョン万次郎ら、事故で欧米へ渡ったという話しは聞いたことがありますが、「天正少年遣欧使節」というのは、聞いたことがありません。宮崎県が生んだ英雄として、成都市・日南両市長も本書を推薦しています。県民、ことに未来の日本を担う青少年たちが世界へと羽ばたいて行かれんことを願います。

その本によると、伊東マンショは、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。幼少の頃、薩摩の島津藩に攻め込まれ、日向国(宮崎県)から豊後(大分県)の大友宗麟を頼って落ち延びた。そこには(府内=大分市)異国の船が入り、異国の人も沢山いた。大友宗麟は、若い時キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルと出会い、キリスト教に帰依している。

その影響で、伊東虎千代(マンショ=満所)は、キリスト教の洗礼を受けます。伊東マンショは「天正少年遣欧使節」の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益と書かれています。

伊東マンショは日本史上、日本国と日本人を世界に知らしめ、当時のヨーロッパルネサンス文化を日本にもたらすということでは、最初の人、日欧友好親善の草分けであります。しかも、その43年という短い生涯は清貧、貞潔、慈愛というヒューマニズムの鑑のような生き方でした。

ところが、今でこそこのように伊東マンショが偉大な国際人であったことが知られ、教科書にも紹介されるようになりましたが、実は彼らが当時のキリスト教宣教師たちに育てられ、自ら宣教師として亡くなったため、日本史の中で、特に安土桃山時代後半から江戸時代の長いキリシタン弾圧の中で日本史そのものから消し去られ、その間、日本人の中ではその名を知る人もなかったのです。

先にも書きましたが、明治6年、新政府が樹立された後、日本の新しい法律や制度を作る必要があり、岩倉具視を全権大使とする欧米使節団が派遣されました。そして南欧諸国を訪れたとき、彼らよりも290年近くも前に天正少年遣欧使節が日本から2年半余の歳月をかけてリスボンへ上陸し西欧を訪ね、ローマ法王やスペイン国王などに謁見していることを知らされ、それ以来、学者などを派遣し調査研究をしたと書かれている。

天正18年(1590年)、日本に戻ってきたマンショらは翌天正19年(1591年)、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。文禄2年(1593年)7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。

慶長6年(1601年)には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。




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| 社長日記 | 07:42 AM | comments (0) | trackback (0) |
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