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高松栗林LC・L吉村屹の訃報が届くブラック・マンディー25日
朝から訃報が、スマホに届いています。スマホはリビングで充電中、ジャストタイムではありませんが、見て驚きました。そう言えばこのところ、例会でもお目にかかっていませんが、いつもの「入退院」かと、誰も深刻には心配していませんでした。勿論、「重体」だという情報も私には届いていませんでした。

L吉村屹(よしむらたかし)は、昭和13年6月生まれの満81歳。クラブでは、早勢誠治ライオンと同年の年長順位5位です。まだまだ若い、まだまだ呑める年頃です。医者からはたびたび肝機能の異常値を指摘され、入院をしたり、でも退院をしたら元の木阿弥。少なくても自粛(禁酒)するようなことは、ライオンズクラブではありませんでした。

入会は昭和49年9月、今年で45年在籍になります。スポンサーはこれまた酒好きの土佐人、L仙頭通夫(旧土佐製鉄)です。私は高松栗林ライオンズクラブから、昭和43年から高校3年間奨学金を頂いていました。そのため、入会の昭和58年1月より前、正確には高校生の頃からクラブ例会等に招待されて、出席していました。

その頃と言えば、L吉村屹(S49.9)の入会前ですから例会等で遭遇することはなかったのですが、L仙頭通夫とはキャンプなどを通じてその豪快さをよく覚えています。そのようなご縁でした。高松栗林ライオンズクラブは結成当時から、「青少年の健全育成」を合い言葉に、「高松冬のまつり」等々のアクティビティーに取り組んでいました。その初期の頃の、アクションの一つが「奨学親和会」でした。

L吉村屹は湊海運㈱の取締役、現職はグループ湊商事㈱の代表取締役会長です。慶応義塾を卒業され、先代の湊社長に気に入られて長女良恵さんと結婚し、湊海運に入りました。長男湊忠勇(昭和13年9月生)と同年生ですが、私の目からも「遠慮謙虚」が垣間見えました。先代父親社長、忠勇専務、吉村屹常務という立場を決して外さない人でした。

高松栗林ライオンズクラブでは、昭和51年に難しい人と言われたL三沢邦彦会長(香川大学教授)の幹事を引き受けて、その大役を見事に果たされたと聞いています。しかしクラブ会長は、平成9年です。湊忠勇氏が高松紫雲ライオンズクラブの会長を終わるまで、自分はクラブ会長にならないと頑張りました。その位、律儀な人でした。

それでいて、豪気でお洒落な人でした。もう15年以上前の話ですが、クラブ釣り同好会で淡路島遠征へ行ったことがありました。その時吉村先輩は、ノースリーブの下着を着ていました。それが格好良く、帰って翌日からそれを真似たほどでした。私に出来ること、下着を真似ることぐらいで、(洋和)服やブルガリーの時計はとても手が届きませんでした。その位、あこがれの人でした。そうそう歌も、上手でした。

そんな先輩に、一度褒められたことがありました。4年前、25年ぶり二度目の幹事を仰せつがった年、浮田和也会長(慶應義塾卒)とL北村昌史会計の三人で、11名の新入会員を迎えて、クラブが一気に活気づいたことがありました。「地区役員をした時より、今年が良かった。一杯やろうと」と、酒をついで褒めて下さいました。

前期のL増田宗樹の病死、今期に入ってL髙崎節子の病死と現役のメンバーが逝ってまた一人、高松栗林ライオンズクラブの顔が見えなくなりました。ある意味、また「高松栗林ライオンズクラブ」の危機であります。通夜は今夜終わり、明日12時半からお別れの告別式(公益社西館)です。かえすがえす悲しくてたまりませんが、しかし心のなかにしっかりと、L吉村屹先輩像を残して、これから私は生きていきます。

9月17日昭和入会者を称える例会で右から三番目

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| 社長日記 | 09:18 AM | comments (0) | trackback (0) |

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