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最後のハワイアンフラガール小野恵美子さん死去
新聞の片隅に、映画『フラガール』のダンサー役で、昨年8月に79歳で死去した小野恵美子さんのお別れの会が3日、福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズで開かれたとありました。扱いは小さいのですが、舞台で踊る後輩たち5人の写真がカラーで紹介されてあります。私もこの『常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)』では、忘れられない思い出があったのです。

その頃の小欄でも紹介しましたが、大学同窓生の悪ガキが、アメリカのハワイへは行けないので、『常磐ハワイアンセンター』へ行かないかと冗談から話がまとまり、それでも日本のハワイでも参集は簡単ではなかったのですが、2019年12月9日北は宮城県石巻から南は四国高松から『飛行機に乗って』パスポートは持たず参加しました。その時は自嘲気味に「よくやるわ」と自分の行動はさて置き、仲間の愚行を微笑んだモノでした。首都圏在住者は、バスで来ていました。

ところがその機会が、福永晴雄との最後の別れになってしまいました。その舞台がまさに、今日の新聞で紹介されているフラガールの舞台でありました。その後私も、映画『フラガール』を観ました。『常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)』の建物も広く、その中に歴史館もあり、歴史好きな私はそれらの記載に見入りました。

一世を風靡した炭鉱産業が下火になり、町全体が衰退し、暮らす住民は生活に苦慮していました。1955年頃から人員整理が始まり、1962年10月の原油輸入自由化によってエネルギー革命が加速して、構造不況に陥ったのです。そこで炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに同社の新たな収入源確保のため、炭鉱以外の新規事業を立ち上げることになり、『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』だった「ハワイ」に着目。

炭鉱で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な常磐湯本の温泉水を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」(じょうばんハワイアンセンター)の建設を計画したのです。しかし、社内でも先行きを疑問視する声が強く、炭鉱の最前線にいた社員たちの転身にも根強い反対があり、「10年続けば御の字」という悲観的な見方すらあった。そんな中、最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長(常磐炭鉱副社長兼務、後に社長)の中村豊が押し切る形で事業を進めた。こんな記載と当時の写真が、掲載されていました。

ここからが映画『フラガール』の始まりはじまり。故小野恵美子さんらが、「若い子が裸踊りをするのか」と揶揄されながら懸命に、東京から来た先生にしごかれる場面が続きます。半世紀後の今に続く、日本初のリゾート施設を支えた立て役者の終焉を、舞台上の青い衣装の小野さんの写真を前に、仲間の初代フラガール5人が息の合った踊りを披露し、会場が拍手に包まれたとあります。

一方三々五々到着した悪ガキたちは、温泉につかり昼間からビールを飲みながら近況を懺悔し合っていました。8年が経過していた東日本大震災の被災者の宮本嘉二は宿泊せずに、「金華サバが揚がりだしたので悪いが帰る」と、悪いのは残りのモノであるのに、宴会でサケも飲まずに石巻に帰っていきました。もう少しで被災から13年、彼は現役を続けています。

また参加者の一人福永晴雄は、これを最後にまもなく彼岸に渡ってしまいました。今思えば、サケも飲まずしんどそうにしていました。彼はプロのコピーライターとして多くの作品を作り、新聞雑誌に発表していました。その作品集を作り、死の餞をみずからが作りわれわれに贈ってくれました。『常磐ハワイアンセンター(現ハワイアンズ)』での写真も、その記念誌に掲載されています。小野恵美子さんと福永晴雄さんのご冥福をお祈りします。









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| 社長日記 | 10:36 AM | comments (0) | trackback (0) |
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