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吉良邸赤穂側屋敷が包囲して討ち入り成功との四国新聞報道
毎年この時期になると、「忠臣蔵」が話題になります。流石に新しい映画やテレビの「忠臣蔵」は最近出なくなったが、話題だけは色々なところで出てくる。品川区の、赤穂浪士の墓がある泉岳寺では、今でも線香が絶えない。品川プリンスホテルに近いこともあり、私も数度足を運びました。堀部安兵衛等有名どころには、沢山の線香が手向けられています。

12日の四国新聞に、新潟大学名誉教授で郷土史家の冨沢信明氏(77)の、現在の東京都墨田区両国にあった吉良上野介邸は、浅野内匠頭の親戚大名や旗本の屋敷に囲まれていたことが、討ち入り成功の要因だったとする説が掲載されている。確かに討ち入り前に吉良上野介邸は、江戸城内から両国橋の外に移付された。

吉良は、刃傷事件後に幕府から命じられて両国に屋敷を移しており、冨沢氏は「討ち入り時の吉良邸は四面楚歌だった。浅野と親戚だった幕府の大目付らが多くいる場所に、吉良邸を移して、討ち入りをさせやすくしたのではないか」と話している。氏は、当時の屋敷を記した地図に注目。大名旗本の系譜集「寛政重修諸家譜」を基に、住んでいた武家の系譜を調査した。

江戸幕府が赤穂浪士の討ち入りを助けたという説は、PHP文庫竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける(2013年10月)」と「日本史の謎は地形で解ける[文明・文化編](2014年2月)」と「日本史の謎は地形で解ける[環境・民族編](2014年7月)」の3部作中でも紹介されている。PHP文庫た94の1・2・3だが、その1に「忠臣蔵は徳川幕府が仕掛けた壮大な復讐劇」と書かれている。

それによると高家(江戸幕府の職名。幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼をつかさどった家。室町時代以来の名家、大沢・武田・畠山・大友・吉良など26家が世襲。奥高家ともいい、官位を持たないのを表(おもて)高家という。)吉良は、今の静岡県に城と領地があり、小藩だった徳川家と張り合っていた。もっと言うなら、徳川家をいじめていた吉良家。

浅野家も吉良家も徳川家も、「塩」づくりの産地。その中でも「赤穂の塩」が、一番良かったと言われている。もう一つ付け加えるなら、吉良が一番のボロだった。先の諸家譜のようなモノに、江戸城の正面の今の麹町警察署がある当たりには、赤穂の浪人が数多く住んでいたという記録がある。府内だから、北町奉行所・南町奉行所も近くにあったと思われる。幕府の後押しなくして、忠臣蔵ストーリーの展開はあり得なかった。

討ち入りの14日、兵庫県赤穂市で「赤穂義士祭」が行われ、高橋英樹(75)さんが大石内蔵助役を務め、四十七士に扮した市民らと共に堂々と市内を練り歩いたと報道されている。高橋さんは、「武士道を生き様として残していった男をかっこよく演じたい」と抱負を語っていた。



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| 社長日記 | 09:19 AM | comments (0) | trackback (0) |
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