今年4月3日享年83歳で永眠された竹中右門さんのお別れの会が31日、JR名古屋駅構内の『名古屋マリオットアソシアホテル』で行われました。竹岸産業㈱と日進瓦斯㈱、竹中家共同のお別れの会です。撮影が許可されていて、各自が何枚もスマートフォン(スマホ)で撮っています。ご覧あれ、なんとも言えない良い顔をされていますね。稲盛和夫塾長にも負けない、豊かなほほ笑みの仏様です。
私は2010(平成22)年9月、大津市立病院で木原俊壱先生の『変形性頸椎症頸椎弓形成手術』をうけました。きっかけは、盛和塾ハワイ開塾式(同年1月)で竹中右門さんと奥様(竹中恵子さんも正会員)ら数人で世間話をしていた折りに、「頸が痛くて」とつい漏らしたのです。「それならすぐに東京塾の『築地すし好(すしこう)』の成田仁孝氏に紹介して貰い、「木原俊壱先生に看てもらったら」と右門さんが口角泡を飛ばして言うのです。
あまりにも唐突であり、成田仁孝(なりたよしたか)氏とは一面識もありませんでした。この頃はまだ入塾3年目で、塾長例会の追っかけを始めたばかりで人脈もまだまだ見えてない頃でした。不思議に言われるまま成田仁孝塾生に紹介をお願いし、6月には大津病院で診察を受けていました。正直私の中では、「まだ手術は早い」で帰されると考えていました。それが初診で、9月3日の手術が決まったのでした。オペの順番が、あれっと思うぐらい上位にランクされていました。
今日の会場で配られた略歴書には、『思い立ったが吉日』が竹中右門の信条です。仕事においては当然の如く、私生活でも常にこの通りすぐさま行動を起こす人でした。動き始めたら猛烈なスピードで進んでいきますので、私達は後をついていくのが精一杯でした。このように書かれていましたが、短い良く考えられた表現だと感心しました。
またこの行動力と人を引き付ける魅力をもって、出会った人と共に良い日に変えていく。そんな人との縁をとても大切にする人でした。私の手術は、そんなわけであれよあれよで始まり、何事もなかったかのように今日まで日常生活を送ることができております。その恩人が、竹中右門さんであります。竹中右門さんは明大の先輩でもあり、盛和塾駿台会での『坂東玉三郎講演会』でも主催者側に回っていました。
今日は盛和塾解散後、初めてになりますか成田仁孝氏ともお目にかかりました。成田仁孝さんは、これまでもつい最近も、ファミリーの稲田二千武さんまで紹介しています。盛和塾駿台会も竹中右門が主宰でした。新潟の栗山敏昭(栗山米菓代表)塾生も、盛和塾駿台会で頸友でもあります。
竹中右門さんは、解散後も何度か高松へ来高されています。訃報を受けた時も「ええー」と思いました。青天の霹靂でした、今度は名古屋で一杯やろうと誓ったところでした。確かに今日の献杯は名古屋でしたが。訃報連絡を下さった竹中稔昌(としまさ)さんとも、奥様・竹中恵子ともお目にかかれて、来た甲斐がありました。『大大十善院智徳房洗心』何とも素晴らしい院号ではありませんか。『私はたとえ死んでも会社を守ります。百年二百年、その思いを続けていけば不滅の会社になると信じています』。故人の言葉です。