高松が生んだ野球怪童、中西太さんお別れの会が、3日クレメントホテル高松で行われました。プロ野球西武の前身西鉄で強打者として黄金期を支え、今年5月に90歳で死去した高松市松島町出身の中西さん。今さら私が解説をするまでもなく、大勢の野球フアンに愛された『太っさん』。2000(平成12)年67歳で、高松市市民栄誉賞第1号を贈られています。
私は讃紫会(高松一・高松・高松商野球部OB連合会)の山口富士雄氏から声掛けられて参加しました。前半はお別れの会セレモニーが、中西さんの奥様子どもさんお孫さんら大勢、WBC優勝監督栗山英樹氏らを招き、地元からは池田豊人香川県知事、大西秀人高松市長、国会県会市会の議員さんも駆けつけていました。総勢270人と聞きました。
印象的な逸話を3つ、一つは髙松市立高松第一高校時代、3度の甲子園大会に出場し、プロからもマークされていましたが本人は早稲田大への進学を希望していた。西鉄のスカウトが度々自宅に来て、ついに母親が契約金を受け取ってしまった。「太すまん」で中西太さんは、プロの道へ行ったと聞きました。この時代ドラフト会議もありません。スカウトの腕の見せどころだったのかも知れません。
もう一つ、私が在学中の昭和47年頃、高松商は高松一と競い合っていました。まだ北四国大会があった頃で、県一位でも愛媛との戦いに勝利しなければ甲子園出場は出来ない時代でした。その頃の一高、七條投手の大活躍で、雌雄を決する戦いをしていました。あの頃の高松一は、本当に強かった。それを跳ね返して、高松商が甲子園の土を踏んでいました。同級生の大北敏博(元巨人軍)細川安雄(元阪急)など、高松商にも逸材がいました。
三つめは、高松商が2000年あたり10年を超える低迷時代から長尾健司監督(2014年4月)を迎えて古豪復活を成し遂げた頃、何度か甲子園大会へ出ましたが、私も応援に行っていましたがその中に中西太さんの顔がありました。ながく低迷した香川県下の高校野球、その時代県教育長だった細松英正元教育委員長も尽力され今日のこの席にいらっしゃいましたが、そんな低迷期を中西さんも憂いていたのでしょうか。
高松商の甲子園出場の応援を、郷土代表チームとして応援下さいました。座右の銘『何苦楚(なにくそ)』は三原脩(巨人・西鉄・大洋)監督から譲り受けたと聞きましたが、「何苦楚」というのは「何事も苦しむことが礎(いしずえ)となり、どんな事があっても新しい日が来る」という意味の「 何苦楚日々新也(なにくそひびあらたなり) 」が本来の言葉です。努力家中西太さんらしい言葉であります。