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浅野翔吾選手のプロ初本塁打だが私は心配も
セ・リーグ4位の巨人は、7番に新人の浅野翔吾右翼手を入れた。今月11日に2度目の1軍昇格を果たすと、即プロ初先発で初安打をマークした浅野翔吾選手。「7番・右翼」で起用された今回が3度目の先発だった。五回3点リードされての浅野の打席、無死二塁で迎えたプロ12打席目のチャンス、左投手が内角に投じた136キロを身体を開くことなく打ち返した。

最初の1軍戦では、3打席3三振と守備失策(記録は安打)と散々の結果だった。これはこれで、良かった私は思いました。プロの洗礼は、大きい方が試練になる。これからの長い野球人生にあって、3三振は微々たるモノで、記録は大したことがなくても、記憶には大きく刷り込まれた。自慢の俊足を生かした守備も、初エラーでこれも思い出となろう。

思いだすのは50余年前、同じように高松商から巨人へドラフト2位で入団した大北敏博。私の高商時代の同級生ですが、彼も『長嶋二世』ともてはやされて、1軍で本塁打も打ったのですが結果プロでは記録を作れなかった。今でも高松商の東京支部総会などに顔を出して、年の割には元気にやっています。われわれ同世代の『スーパースター』は、今も変わりません。

彼が巨人に入った年、私も上京し大学1年生でした。この頃の私には岡田一博と大北敏博(元巨人軍)という同級生恩人がいました。私が東京の私学に入学できたのは、母サチ子は身内として大恩人ですが他人はこの二人でした。進学組の岡田一博は、3年の夏に盲腸炎の腹膜炎を起こしながら翌年の受験で、京都大学に現役合格でした。私には良きライバル。大北敏博は共に東京行きを、奨めてくれました。

大北敏博がプロでは記録を残せなかったのは、私が食事などに誘ったせいで、取り巻きに問題があったと反省しています。資質的には大差のないプロ野球の世界、大谷翔平選手のように『野球の虫』にならないと、記録は残せないようです。高商の長尾健司監督によれば、浅野翔吾選手も定期的に元高商メンバーと会食をしているようですが、後輩諸君「あまりたかるなよ」。

浅野翔吾選手の初本塁打を、私は違った角度から見て、勿論喜んでいますが、心配もしています。夏の甲子園大会、ベスト8が出そろいました。半世紀前の高松商も、ちょうどここにいました。私は大阪市内の松野家に滞在し、勉強もしないで(先生には勉強三昧と報告)連日甲子園応援通いをしていました。あの時も、やはり暑い甲子園でした。


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| 社長日記 | 09:42 AM | comments (0) | trackback (0) |
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