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中西太物語その2
少し前のことになるが日本経済新聞のコラム『春秋』に、中西太さんの訃報が掲載されている。中西太さんは、甲子園に春1回夏2回出場したと先の小欄に書いたが、春の1回は中西さんが高松一高の新1年生の時と言うから、今のことではない。戦後の一時、春の選抜高校野球大会に新1年生が出場したことがあるそうだ。学制改革による特例だったそうだ。

早稲田大進学を目指したようだが、経済的事情で西鉄へ入団。行商を生業とする母親が、「フトシ、かんべんしてくれ」と、泣きながら判を押したという。日本中が、貧しかった。2018(平成30)年2月の四国新聞の紙齢44444号発行特集の際は、『何事も苦しい時の経験が自分の基礎を作る』という意味の座右の銘『何苦礎(なにくそ)』のメッセージを、色紙にしたためて多田智幸記者に渡してくれたそうだ。

中西太氏の18年間のプロ現役生活のみならず、高松一高時代を含め、ここぞという場面でのボールカウントなど、試合の細部を正確に記憶していたと言う。何と言っても記録に記憶に鮮やかなのは、1958(昭和33)年の日本シリーズ。力強い打撃で西鉄(現西武)の黄金期を支えた『怪童』は、巨人に3連敗してからの4連勝でシリーズを征した。

3連敗してからの『かど番』で迎えた第4戦が、雨で順延になった。鉄腕稲尾和久投手(西鉄)が活力を取り戻し、それからの4試合中3試合に先発して完投。最終試合も3番手で登板して、勝ち星を挙げた。「神様仏様稲尾様」と言われ、今では流行語大賞だ。中西選手も第5戦で1点差に迫る2ラン、第6第7戦は続けて先制本塁打を打ち、大暴れしたと本人の談。

中西選手はその風貌からも、囂々磊落のように見られているが、実は繊細だったという逸話が多い。指導者になってからの活躍に、その片鱗を見ることが出来る。長嶋茂雄氏のように、手とり足とりジェスチャーで指導されても、同じ動きが出来ない若手選手には伝わらない。理論も必要だと私も思う。出来ない後輩を指導するには、原点回帰が出来るかどうか。己の功績も、ここでは一時脇に置く。

先の小欄でも書きましたが、中西怪童は母校のみならず高松商の甲子園応援にも駆けつけて下さいました。野球王国香川の県勢復活にも、惜しみない応援と支援を戴いた。享年90、あっぱれな人生だと憧れます。改めて、ご冥福をお祈りしております。


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| 社長日記 | 08:14 AM | comments (0) | trackback (0) |
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