朝は記念ゴルフからスタート。生憎の雨模様、キャンセルが続出。慌てて組み直すなど、受付はてんやわんや。受付後は記念撮影、スタート順に、「はい誠輝(まさき)」。まだ少し雨が残っています。雨の中でのゴルフも大変です。私は急ぎ『鮎滝カントリーC』をあとにします。次はゴルフをしない観光組の『エキスカーション(小旅行)』です。
前日にレンタカーの代金支払を終えて、今日はL松田展和が運転手をやってくれます。ありがたい、私は簡単な観光資料を作って持参し、道中で説明しながらクルマを西へ進めました。喜んで下さいました。何より、まとめることで自分の勉強になりました。恥ずかしながら、『香川県』は讃岐国の中心だった『香川郡』から『香川県』となった。知りませんでした。
合併前には、『香川県』『香川郡』『香川町』が存在しアマチュア無線界では、人気がありました。県名と県庁所在地の名前が違うのは、(例えが香川県高松市、反対は岡山県岡山市)明治政府に良く思われていなかった都市とは聞いていました。徳川家の親藩だった香川県は、1873年2月20日には名東県(後の徳島県)に編入されるも、2年後の1875年9月5日に香川県(1875年9月5日〜1876年8月20日)として分離されたが、翌年1876年8月21日には愛媛県に編入された。
度重なる編入の度に、地理的要因や地域文化や住民意識などで食い違いが発生し、香川県として単独の県の設置を望む声が再び高まり、12年後の1888(明治21)年12月3日に香川県が復活して、現在に至る。この時尽力した偉人が、当時愛媛県議会議員・議長だった『中野武営』さん。彼が愛媛県からの香川県の独立(再置)運動に奔走したと聞いています。
県全体の面積は日本一面積の大きい市町村である岐阜県高山市よりも狭い。また、平野が県土のほぼ半分を占めている。平野に点在する山は、おむすび山が多い。というような簡単資料です。
雨で既存の計画は中止、雨プロとしてまず『善通寺』へ向かいました。『四国遍路』の一端の紹介ですが、ここでも『おさめふだ』で面白いことがありました。100枚セットを100円で販売していますが、これを一人が買い求めてみんなにシェアーして住所氏名を書き箱に収めました。売店の女性に聞いてみました。「始めて見ました」と言われました。
昼食がメインです。観音寺市大野原『天水分(あめのみくまり)』、大混雑していました。予約がないと、これはとても入れません。見ると女性客がほとんど、高松商の後輩4人組もいました。男性はワンコインのうどん、女性は豪華な昼食が讃岐の定番でございます。すき焼き御膳を頂きました。白米がついていたのですが、金沢兼六ライオンズクラブから「うどんが食べたい」とリクエストが有り、無理を言いました。
茹で上げに、12分はかかります。ほぼ参加10名、全員でシェアーして楽しく頂きました。昨日のシメの『カレーうどん』とはまた違い、これも良かったですね。元麺職人、作る工程は想像が出来ます。食事のあとは、接待委員長のL橫井靖司と相談しながら、東県庁館内の壁面には、猪熊弦一郎作のモニュメントが飾られ、椅子やテーブル棚や調度品はニューヨークで活躍していたジョージ中島の設計で、地元の桜製作所(当時社長の永見真一氏は高松栗林ライオンズクラブのチャーターメンバー)が作成したと聞いていると説明したことから、猪熊弦一郎現代美術館へ。
次ぎも考えましたが、夕方からの『友好クラブ歓迎会』に備えて高松市内のホテルへ引き返しました。18時半からパールガーデンホテル6階で、『島原ライオンズクラブ・岡山後楽ライオンズクラブ・金沢兼六ライオンズクラブ・高知黒潮ライオンズクラブ』各姉妹クラブと、高松栗林ライオンズクラブ総勢100名弱の祝宴前夜祭でした。
二次会は地下の『セリナ』で、50名のカラオケ大会。名物『栗林のタヌキ』も数匹(女性タヌキもいた)出てきて、薄暗い会場を盛り上げてきました。今日が二日目ですが、私は11日のリハーサル後に成功が天然色で見えていました。今日も栗林総出で、無事終えることが出来ました。明日はいよいよ『式典&祝宴』、本番が始まります。