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もう一度見たい星野仙一監督の勇姿
地上地デジTBSの深夜番組で、星野仙一さん追悼SPをやっていました。星野仙一先輩は、岡山県児島郡福田町(現・倉敷市)出身。岡山県立倉敷商業高等学校から、明治大学政治経済学部経済学科(私と同じですが生徒が一番多い学科)に籍を置いて、自ら「明治大学野球学部島岡学科出身」と自称するほど島岡監督の薫陶を得て、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団した。

1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。投手として巨人キラーとして活躍したのですが、やはり氏の真骨頂は、監督になってからの人生だと思います。

私の記憶の中だけでも、40歳の若さで中日ドラゴンズの監督に就任し、その後しばらくの時間をおいて、阪神タイガースの監督、東北楽天ゴールデンイーグルスと、セリーグとパリーグの両方を経験している。またオールジャパンの監督として、日の丸を付けての指揮もとっている。正直な話、現役投手としても記録よりも記憶が先行し、監督としてもその活躍が印象に残っています。

2017年11月28日と12月1日には、自身の「野球殿堂入りを祝う会」に出席していたが、その後体調が悪化し、年が明けた2018年1月4日午前5時25分に死去した。70歳没。それにしても若い、まだまだ頑張って、落ち目の巨人を救ってもらいたいと願っていた。

なんと言っても、人生最後が肝心。今日のような名場面を見ていると、何とも惜しい人を失ったように思います。ヘッド兼打撃コーチに再び田渕氏を招き、その他スタッフの協力もあったと思いますが、その手腕は、稲盛和夫塾長並みの「人たらし」の名人だった思っています。

野球も人生も、「理」だけではなくて「情」も必要です。がしかし、小善と大善の存在も、峻別することが求められます。良いわ良いわで臨んだオリンピックでは、やっぱり勝てなかった。しかし勝てなかった五輪でも、選手を育てたと思います。星野仙一、やはり偉大な先輩でした。

星野仙一監督

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| 社長日記 | 10:40 AM | comments (0) | trackback (0) |

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