2022,10,25, Tuesday
25日衆議院本会議で、今年7月に奈良市で銃撃され死去した安倍晋三元首相の追悼演説を、「立憲民主党」の野田佳彦元首相が行った。私も安倍晋三元首相の追悼には、野田佳彦元首相が最適任だと思っていました。時事話題に関心のある日本人であれば、2012年11月14日の国会党首討論を覚えているでしょう。
巧みな当時野党自民党の党首だった安倍晋三元首相が、野田佳彦首相に解散を約束させ、12月の衆議院選挙で294議席という多数を獲得し、3年3ヶ月ぶり与党に返り咲いた劇的な場面です。このことに関して野田佳彦元首相は、「勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん」と涙をこらえての訴えがあった。恨み節と言うより、再戦が出来なかったつまり早く議場から退場した安倍さん、私は残念無念という想いが込められていたように感じました。 当時の民主党は2009年9月16日に、92代自民党麻生太郎(358日在任)内閣から、鳩山由紀夫内閣が政権を奪取し、民主党鳩山由紀夫内閣(266日在任)、菅直人内閣(452日在任)と続き、野田佳彦首相は2011年9月2日当時55歳だったと思いますが、総理大臣に就任し482日間その重責を担っていました。それが安倍晋三元首相の言葉巧みな誘いに、してやられたわけです。 これらは野田佳彦首相が悪かったと言うより、民主党政権が国民から飽きられていた世論調査が物語っています。稲盛和夫塾長も日本は二大保守政党が交互に政権担当することで、国民生活が良くなると考えていました。しかしこの頃になると、自民党政権復活待望論が大きくなっていました。安倍晋三元首相は2012年12月26日に再登板しますが、第2次安倍内閣です。つまり安倍(当時57)さんも、一度の失敗から学習して臨んだ党首討論会でした。 ここから安倍晋三元首相は、2627日という最長政権を樹立します。安倍晋三元首相からすれば、一番の政友が野田佳彦元首相だと言えると思います。当時の安倍さんも、あの時野田さんが解散総選挙を言い出すとは思ってもいなかった。『土俵際まで追い詰めて』程度の成果を狙っていたと思います。一瞬驚いた安倍さんの表情を、報道カメラは巧みに捉えていました。 共に政敵であり、政友だったかもしれません。政治とは非情なモノで、岸田文雄首相は甘いですね。稲盛和夫塾長は、『小善』と『大善』を使い分け内部矛盾を感じさせない論理を創り上げていました。稲盛フィロソフィは、経営のみならず政治の世界でも通じます。共に人間がすることですから。 |