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TV大津市民病院復活劇と映画孤高のメスを観て名医とは
このところの夜のTV番組は、特別番組を2~3時間やっていて、好みに合わない番組は、選択に困ります。いよいよないときは、ユーチューブを観ることにしていますが、その前に録画した番組を探します。先に見た番組で小欄でも紹介したと思いますが、『滋賀県大津市民病院の再生』のテレビ東京放映録画を改めて観ていました。私も変形性頸椎症頸椎弓形成手術をここで受けて、今日まで仕事が出来ています。あの後の出来事のようです。

次にかみさんが録画していた『孤高のメス』という、題名から内容が良く分からないビデオを観ました。まさに大津病院と同じように、映画版市民病院再生物語でした。後者は映画ですから監督やプロデューサーの意向が色濃く出て、感動場面も豊富に用意されています。一人の医師が、海外旅行用大型トランク1つで、市民病院へやってきます。そこには大学医学部外科の医局があり、大半がそこに所属し、大きな顔をしていました。

しかし外科手術の実態は、誤診のため開腹して見て少し手強いとなると、開けたままで大学病院まで1時間半救急搬送するていたらく。手術場の看護師も、それを目の当たりにして手術機材もぞんざいに扱うようになる。こうなると、病院の再生はなかなか前途多難。この状態を先の新任医師が、替えてしまうという筋書きです。

生体肝移植をやるわけだが、院内でも反対勢力が大多数で、主人公や彼の医師としての矜持に賛成するスタッフで、手術は成功するが彼は病院を去る。何年か後に、手術場の看護師の息子が、母親が勤務していたこの病院に勤務するためまた海外旅行用の新型スーツケース一つひさげて、この市民病院へ勤務するために来るところでドラマは終わります。

医者という少数高等技術者ゆえに、医者としての誇りに欠ける人と、おごり高ぶる人が多い医者の世界の陰と陽を描いた作品でした。たまたま前後して観たモノだから、2つがオーバーラップして複雑な気分になりました。何の仕事も偉大ですが、『命のやりとりをする』医者も人間です。医師の心と技術の明暗も、分からなくもないのです。その治療を、あなたは妻やわが子にしますか。そこが分岐点です。

医師も歯科医師を含めると、コンビニほどあるとも言われています。確かに外科であれば手術の技術はとても大事ですが、それと同じくらい人間性豊かな先生が良いですね。われわれは経営者としての素養を学んできましたが、医者も経営者でもあります。上から目線はやめて、真摯に患者と向き合ってこそ名医です。


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| 社長日記 | 08:52 AM | comments (0) | trackback (0) |
山口冨士雄と大北敏博と浅野翔吾選手は高商の綺羅星
昨日23日が、高松商業高校同窓紫雲会令和6年度総会でした。総勢180人で、大変盛り上がった懇親会になりました。私は各テーブルを回り、一番目に応援団・チェーガールへのカンパ、次に紫雲会年会費納入の声がけをしていました。恐らくほとんどの常連さんは、カンパと年会費の支払いが初めてだと思います。年会費は、昨年度まで執行部役員と紫雲会ホームページを見た同窓生のほんのわずかな人だけが、負担するに過ぎなかったのです。

この紫雲会は、『会員相互の親和連絡を図り併せて母校の発展を援助することを目的とする』と会則の第2条に書かれています。先輩は実に上手く、理念をまとめて後世に伝えたモノだと感心します。往々にして「母校の発展」が先にありがちですが、まず会員同士の親和と連絡つまり会員自身の楽しみを一番に置いています。すでに実態があって、それをまとめたのが会則だろうと思いますが、私が入学する前の昭和42年5月28日に施行されています。

昭和42年当時は、二代会長の水野丞祐さんがいろいろ戦後の紫雲会を元気にしたと聞いています。勿論面識はありませんが、私の中では伝説の英雄です。市議や県議をやりながら、香川県内商業界に影響を与えた先輩と伺っています。かれこれ60年前になります、1900(明治33)年開校の高松商は、今年124年の歴史を刻んでおります。

さて標題の三人ですが、先の総会でも話題になっていました。浅野翔吾選手は、二代前の高商野球部キャプテンで、巨人軍で今活躍中の19歳です。ホームランを打ったかと思えばチャンスで三振、華麗なファインプレーで球場を沸かせたら痛恨のエラー、浅野翔吾選手で勝った試合、彼で負けた試合、決して一本調子ではないのですが、彼は監督の阿部慎之助 (第20代)やキャプテンの岡本和真 (第20代)、副キャプテンは 吉川尚輝 、投手キャプテンは 戸郷翔征 、選手会長大城卓三さんらにも愛されているようで、ここが踏ん張りどころ。

山口富士雄さんは、日本のプロ野球界で活躍した選手で、阪急ブレーブス(現在のオリックス・バファローズ)や大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)に所属していました。1942年7月16日に香川県高松市で生まれ、高松商業高校では、遊撃手として活躍し、春の選抜大会に出場するなど素晴らしい成績を収めました。

しかし高商卒業生は、先の浅野翔吾選手も大北敏博(元巨人軍)もそうですが、高商現役の頃の彼らの活躍で、記憶が止まっています。山口冨士雄は昭和35年の第32回選抜大会の決勝で米子東と対戦し、1対1の9回裏の先頭打者でサヨナラホームランを打って、高商としては36年ぶりまた戦後初の全国制覇を成し遂げました。10歳の私は、これを近くの商店のテレビで観ていました。この山口冨士雄先輩も今日の総会参加者で、2次会までお付き合い頂けました。

残るは大北敏博(元巨人軍)ですが、私の同級生です。浅野翔吾主将は、52年ぶりに甲子園ベスト8でしたが、私たちの昭和45年夏の第52回選手権大会の準決勝戦、PL学園に5-16と負けるまで、わがチームは頑張っていました。1回PLの攻撃で放たれたライト前ヒットは、右翼手がダイレクトで捕球したのですが審判はヒットのコールでした。私や紫雲会大阪支部の大森茂(事務局長)はライトスタンドで、このシーンを見ていました。この1球で流れがPLへ傾き、高商は負けました。

今日の総会会場でも「大北は元気してるか」と、何人かに聞かれました。このほかにも野球の有名人はいますが、私はこの3人の選手と長尾健司監督が高商の歴史の顔だと思っています。山口冨士雄氏は高松在住ですが、大北敏博は横浜です。せめて東京支部総会には、是非元気な顔を見せてください。いつまでもわれわれのヒーローです。今日のネタは平成二十年11月発行、創部一〇〇周年記念誌から引用しました。


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| 社長日記 | 11:39 AM | comments (1) | trackback (0) |
香川県立高松商業高校同窓紫雲会令和6年度総会
平成12年13年卒業幹事団や同窓職員・谷畑祐二教諭、田澤香緒里教諭の並々ならぬ努力のたまもので、令和6年度総会が開校記念日の23日、好天にも恵まれ12時からホテルパールガーデン(高松市福岡町2-2-1)で開催されました。コロナ期も含めて8年間、会長の重責を担った岡義博会長が退任されて、松野誠寛が九代会長に就任。任期は2年です。

同時に退任された、平田真由美と南敬子両副会長ら3人には、和田憲明理事から記念品が贈られました。長尾健司監督のサインボールです。私も聞いていなかったのですが、実にナイスですね。われわれ世代には、巨人軍で活躍している浅野翔吾選手のサインボールより、神様・長尾健司監督のそれが良いですね。浅野翔吾選手も長尾健司監督に電話してくるようです。私の時も、和田さんお願いしますよ。

総会には学校職員・20代山本主税校長はじめ顧問の歴代校長、紫雲会東京支部から堀眞英支部長をはじめ、安西愈名誉支部長、北條勇前支部長ら、また紫雲会大阪支部から外山公一支部長・岡田忠義副支部長・國宗勝彦副支部長・大森茂兼任事務局長らが遠路会場にお運び下さいました。昨日の大雨が嘘のような、日本の春分の日の開催でした。

県立高松商の学生さんは、野球・サッカーを筆頭にバレーボール、ハンドボール、バトミントン、ソフトボール、柔道、剣道、ヨット、弓道、書道、簿記、計算競技、情報処理など体育部も文化部も大活躍されています。昨日の茶道部もわずか県下4校の中の1校として、栗林公園の日暮亭で『かぐや姫』をテーマとして絞り込み、亭主の口上(古文の竹取物語)からお茶菓子の発注まで徹底していました。あっぱれでした。

そんな学生さんの活躍に、同窓会紫雲会としては、何とか『強い高商』の一翼を担えるように、老体にむち打ち、学生さんのお役に立てるように明日からまた精進します。私も挨拶の中で数年前から実施している会費徴収に付き、老若男女年間2千円を5千人分の1千万円目標と豪語してしまいました。ちなみに昨年の年会費納入額は312,000円でした。

何とも遠大な計画ですが、田澤香緒里教諭が私のたっての願いを聞いて、『会費納入封筒』を用意してくださいました。役員会でも意見が割れるところですが、『会費徴収と会員拡大』が組織を強くする方法です。後者の会員拡大は、在校生が新規会員となることから心配はありませんが、会費5,000人分徴収は頑張って年間31万円でほど遠い目標ですが、本総会でも50通程度の回収は出来たと思います。

さらに順番が逆になっていたら参加者が怒り出したと思うのですが、先に応援団・チェーガールのパフォーマンス(臨場応援ソング披露)がありました。高松商でも応援団・チェーガールは全員女性になっています。私ら現役の頃とは大違い、特にチェーガール定員30名には入団試験があるというほどです。懇親会前のわずか15分ですが、孫(ぐらいの子たち)の一生懸命ぶりの笑顔に涙腺も緩みっぱなし。生徒が退室した後に、指導教員2人と会場を回ったのですが、125,000円も集まりました。指導者は来年の熱中症対策費が出来たと、大変喜んで帰りました。指導者が元気になったら、学生も一層頑張ります。

そして乾杯後に、役員総出で会費納入の封筒を各テーブルに持参しました。高松商もこれまで振込口座やクレジットカード払いなど、ITデジタルを駆使した方法を模索して会費徴収に取り組んで来ましたが結果が31万円でした。正副会長は、桁違いの納入をしながらこの結果でした。参加者には恨まれたかと思いますが、やはり今現在は、アナログとデジタルの融合が効果覿面のようです。

懇親会は2時間でしたが、大いに親交を深められたようでした。アトラクションは大阪から『ジョン・道阪』さんのマジックショーでした。最後にはハトがいなくなったのですが、あのハトは無事大阪へ帰ったのでしょうね。最後に幹事団からのコメントを紹介して、喜び一杯の今日の日記とさせて頂きます。

本日はご出席をいただき、ありがとうございました。
今後も紫雲会の運営には、会員みなさま方の積極的なご意見を受け賜り、取り組んでまいります。母校の輝かしい歴史と伝統にふさわしい、活力ある楽しい会にしてまいりたいと考えておりますので、今後ともご協力をお願い申し上げます。
来年の紫雲会も、さらに多くの同窓生との再会を楽しみにしております。





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| 社長日記 | 10:53 AM | comments (0) | trackback (0) |
第25回八兵衛茶会と秋の高校生大茶会in栗林公園
八兵衛茶会の案内を貰った。私も会員らしい。西嶋八兵衛顕彰会があり、高松大学佃昌道学長が会長と書かれている。今月29日にはいよいよ『第60回明治大学全国校友香川県大会』が開催される。記念講演は、池田豊人香川県知事と高松大学佃昌道学長の二人が講師だ。今日の茶会と同時進行の、秋田県由利本庄市の『生駒顕彰会・佐藤健一郎会長』とも由利本荘市での話しで盛り上がる。

讃岐(現在の香川県)は藩政が奮わない上に、地震や干ばつなどの災害が相次いだため、伊勢の津藩主である藤堂高虎は、家臣の西嶋八兵衛を讃岐建て直しに遣わしました。高松は、いわゆる難波津や奈良、京都にも近く、瀬戸内海を使って西から攻めてくるのを監視する西日本の要所です。

1587年(天正15)生駒氏が入封、香東郡野原郷に城を構え、高松と命名。生駒氏は秀吉の朝鮮出兵にも参陣し戦功を上げた大名で、守りの重要性を意識しての拝領でした。そのころの高松は野原と呼ばれており、港町として栄えていたようです。

西嶋八兵衛之友(1596〜1680年)
遠州(現・静岡県)浜松で生まれる。名は之友。八兵衛は通称。17歳で伊勢の津藩主藤堂高虎に仕えた。水利、土木、経済、書道に優れた八兵衛は、高虎の命で1625年(寛永2)〜1639年(寛永16)の14年間讃岐に住んで、讃岐高松藩生駒家の領国経営に参画した。讃岐の実状を高虎に報告し、長期的視野に立った溜め池の改修や築造、香東川(こうとうがわ)の東流を締め切って、西流1本にする大規模な治水事業に取り組み、新田開発を実現した。讃岐を離れてからは、城和奉行や伊賀奉行を務めた。

今の香東川を作ったのが西嶋八兵衛之友で、香東川というのは、香川県中部を流れ、延長3万2989m、流域面積113・2km2の二級河川です。奥山にある樺川(かばがわ)という里に香り高い樺の古木があったために馥郁(ふくいく)とした香りの水が流れた、という伝説からこの名がついたといわれ、県名の由来にもなっています。

八兵衛は香東川の東流を締め切って、西流に1本化。東の旧流路付近に新田開発を行ないましたが、この工事は想像以上に大変で、締め切った下流地域では長期にわたって伏流水が湧き出たそうです。ちなみに、この地方では湧水のことを出水(ですい)と呼んでいます。

さて、香東川の締め切りを成功させた八兵衛は、安全を祈願して〈大禹謨〉と刻んだ石を鎮斎しました。時期は特定されていませんが、八兵衛が滞在した14年間の半ばではなかったかといわれ、場所は香川町善海辺りと考えられています。

紆余曲折があり、今ではこの西嶋八兵衛が揮毫した『大禹謨(だいうぼ)』の石碑が栗林公園商工奨励館の中庭にあります。今日はオイスカ高松推進協議会の馬場朋美(元市職)さんの計らいで、オイスカ研修生ら8人を茶会に招待したのですが、掬月亭でのお手前の菓子に『大禹謨』と刻があり、これを見た引率者の山崎職員に質問されました。

古希を迎えた私は、「どこかで見たぞ」とは直感しましたが思い出しませんでした。本当に恥ずかしい。流石石州流土居宗美亭主は、それを使っていました。一緒に、秋田県由利本庄市矢島町の龍源寺(生駒家の菩提寺)へも参拝しました。生駒さんも、西嶋八兵衛之友も今の香川県ではあまり知られていませんが、香川県は彼らや多くの先人らの労苦で今があるのです。

園内では高校生茶会も、大雨のなかですが開かれています。山崎指導員も「行きたい」というので、茶会のはしごです。先の掬月亭は広いので椅子も使えましたが、ここ日暮亭は本当の茶室の風情を今に残しており、とても椅子など言えませんでした。フィジーのトウイさんは骨折リハビリ中ですから隅で椅子ですが、私は次席に座る羽目になり、苦痛の時間でした。高商生は頑張っていました。先輩としては、鼻高です。明日は高商紫雲会総会、明日は晴れると良いのですが。

大禹謨発見のドラマ│40号 大禹の治水:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター (mizu.gr.jp)
参照しました。






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| 社長日記 | 10:19 AM | comments (0) | trackback (0) |
大谷翔平選手米大リーグ初50-50の大記録達成その後も51・52・・・
近年にない、何とも爽快な話題だ。米大リーグ、ドジャースの大谷翔平選手(30)が19日、マイアミで行われたマーリンズ戦でメジャー史上初、誰もがなしえなった『50本塁打、50盗塁』の快挙を達成した。私と同じ日本人だが、明らかに結果が違うし、また比べようもない人類初の快挙に世界中が沸いている。

二つの盗塁を決めて51盗塁とした後の六回に49号2ラン、七回に50号2ランを打って到達。おまけに九回には51号3ランを放ち、6安打、3本塁打、10打点と大活躍。いずれも日本人選手の、1試合最多記録となった。先頭打者だとしても、6回の打席はあり得ないことだと得点を見れば、20-4という快勝。同時にメジャー7年目で、初のプレーオフ進出も決まった。

昨年の今頃、「ヒリヒリする終盤戦を戦いたい」という自らの願望を自らの足とバットで叶えた。投手大谷はリハビリテーション中だが、その分ホームランと盗塁で、チームのために貢献した。個人の記録より、まずチームの勝利に貢献するという動機づけが何とも大谷翔平流で、好感が持てる。これほどまでに心技体が整っているアスリートはいない。

今年もMVP間違いないと思うのですが、何とも『すごい』の一言に尽きる。メジャーリーグ100年の歴史の中で、もはや大谷翔平選手以上の打者はいない。それも、多くが期待する以上のスピードで成し遂げてしまう。ヤクルトの村上宗隆内野手(22)が3冠を成し遂げたときも、本塁打記録を更新したときも、なかなか届くまでに時間がかかった。世界の王選手もみんなそうだ、足踏みしてしまう。

日本の記録達成以上に厳しいのがメジャの世界で、その最先端にあって大谷翔平選手は実に絵に描いたように簡単に成し遂げる。結果だけ見ていたら、別の星の生物かと思うほど、人間離れしている。恐らく水面下では、毎日トレーニングを欠かさない生活だと思う。長期ロードは試合だけでへとへとになると言うが、彼はその中でも計画的にトレーニングをやっているのだろう。

私は野球の専門的知識はありませんが、毎日トレーニングをするというルーティンは、果たしてどう作るのだろうか。飛行機移動と言いながら、アメリカ・カナダの東西は広い。まさか移動中の飛行機の中でトレーニングもなかろうが、このあたりの練習が『さすが大谷翔平』を作っている。1に睡眠、2に食事、3に練習だろうか。毎回打席に立って、ボールの見え方がぶれないというのが凄い。

これが打撃の好調さをキープしている秘訣だと思うのですが、立つ位置はバット置いて間隔を図り、そこへ左足かかとを置く。次は構えだが、疲れると背筋が弱まり前屈みになる。こうなるとボールの見え方が違ってくる。立つ位置、構え、バットの出方がシーズンを通して一緒だと当然好成績が生まれる。だけどそうはいかないのが、人の営みの6ヶ月であります。

一般的に打撃の基本が不易でないから、調子の上下があるというのが、人間の世界です。いくら西川の布団にオリジナル枕で寝ても、体調のキープは難しい。何とも不思議な存在であるのですが、もう一つ花巻東校監督である佐々木洋さんが大谷翔平選手の『50本塁打、50盗塁』の快挙を聞いて、高校時代にあの足の素材を見いだせなかったのは監督として何とも恥ずかしいと語っている。幼少の頃から足が速かったという話しは聞くが、プロ入りして大リーグで真価を発揮している大谷翔平選手は、いったいどうなっているのですかね。


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| 社長日記 | 08:44 AM | comments (0) | trackback (0) |
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