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在宅勤務時代の落とし穴
26日の日経新聞によると、テレワークに『落とし穴』が出てきたと報じられている。小欄でも、過去に心配を書いた。なにも今出たと言うのではなく、『リスク』は以前から言われていたのだが、実際『テレワーク』を利用するケースが多くなり、リスクが顕在化したと言うべきだろう。発表分だけでも38社が不正アクセを受け、遠隔勤務に欠かせないVPN(仮想私設通信網)の認証情報が流失したという。

この結果は従業員など関係者以外が、その会社のネットワークシステムに入り込めることを意味する。VPN接続とは、インターネット上に仮想の専用線を設定し、特定の人のみが利用できる専用ネットワーク。接続したい拠点(支社)に専用のルーターを設置し、相互通信をおこなうことができます。

情報が流出した企業は、米専門企業パルスセキュアのVPN機器を使っていたという。同社はこの機器について2019年4月に脆弱性を公表し、修正プログラムも公開。日本でも民間団体が注意喚起していたが、一部企業は修正を反映せず、VPN情報をとられる原因となった。被害の背景に浮かんでくるのは、情報セキュリティーに対する日本企業の『脇の甘さ』だ。

私も含めて、『脇の甘さ』は痛感する。各種団体から『パスワード』を変えなさいと何度も言われるが、記憶できないこともあって、長く同じモノを使っている。そのため『マイナンバーカード』の利用などは、覚えているモノだからすらすら出てきて支障はない。新型コロナウィルス対策と同じで、私から感染するとまずい。そう考えると、IDとパスワードはアトランダムなモノで毎月新しくして、どこかに記載して保管するか。

対策として注目されているのが、『ゼロトラスト(信用しない)』ネットワークと呼ばれるサイバー防衛の発想だ。誰でも社内ネットワークに遠隔では入れる半面、どの情報にアクセスできるかを細かく分けて設定。パスワードだけでなく、指紋や顔認証といった多要素認証を様々なアクセス制御で組み合わせるモノ。

侵入そのものを入口から防ぐ従来の仕組みと異なり、不正アクセスがあっても内部で様々な認証の壁に阻まれ、個人情報全体などを盗むことが難しいとされる。米グーグルが今春に提供を開始したことで、新たなリスク管理の取り組みとして広く知られるようになったという。このあたりはもっぱらパソコンの世界だが、今後スマートフォン(スマホ)全盛時代になると、これらは一体どうなるのだろうか。


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| 社長日記 | 09:31 AM | comments (0) | trackback (0) |
孫娘からの質問状おじいちゃん戦争のことを教えてby中條高徳
ニューヨークの高校に通う孫娘から、分厚い手紙が中條高徳氏の元へ届いた。戦争を体験した祖父への、孫娘からの質問状だった。歴史教育に疑問を抱いていた中條さんは、孫娘の質問に一つ一つ真剣に答えていく。「アメリカとの戦争は正しかったと思う?」という孫娘のストレートの質問に、中條氏は、「あってはならない戦争を、日本とアメリカはやったのだ。その責任は日本とアメリカの双方にある」と断言する。

孫娘は、高校の歴史のクラスで、戦争責任を勉強することになったという。手紙は、「戦争の見方、体験は国によっても違いがあるはず」との歴史教師の考えを受け、戦争体験者の祖父への質問状だった。かつて軍人を志した祖父は、自らの人生を振り返り、孫娘の問いに真摯に答えていく。

中條高徳(なかじょう たかのり)氏は、昭和2年長崎県生まれ。陸軍士官学校、旧姓松本高等学校を経て、27年学習院大学卒業。同年アサヒビール入社。平成2年アサヒビール飲料会長。10年より同名誉顧問。アサヒビール復活劇でも、登場する名物経営者の一人です。この本は、単子本と、小学館から文庫本も出ています。私は、小学館文庫を読んでいます。

昭和をひたむきに生きた日本人の誇りと、手紙を通じて心がつながる祖父と孫の感動を描いたベストセラーの文庫本化。高校生の孫は、忖度なくストレートに質問します。それを中條氏は、真摯に丁寧に答えています。私が孫に聞かれたら、戦争の話ではないと思いますが、『米中対立』や『新型コロナウィルス』のことでも答えられるか、心していなかったら大変だ。

「なぜ軍人の学校に進んだの?」
日本は明治維新後大急ぎで近代化を図り、日清・日露の戦争に勝利して、国際社会の中での地位を確保したことは、分かっただろう。ことに日露戦争の勝利は、白人国家以外の国が白人国家に勝利した世界で最初の事例だ。『富国強兵』の国策が、結果を誘引した。国のために尽くすには、軍人になるのが一番であり、それは人間として立派なことだという空気があった。

「アメリカとの戦争は正しかったと思う?」
日本にはソ連に備える意識はあっても、アメリカと対立し、まして戦争するといった事態は、予想もしていなかった。これは近代日本の伝統的意識と言って良いモノだ。日露戦争の勝利は、白人に対する黄色人のはじめての勝利であり、黄禍論の源となった。またアメリカは、1924(大正13)年5月には、『排日移民法』がつくられた。更に驚くべきは、この頃のアメリカは陸海軍統合委員会をつくり、日本を仮想敵国として「オレンジ計画(1907(明治40年)」を樹てていた。

その後、日本の中国大陸への戦線拡大が、アメリカに明確な日本に対する敵視政策をとらせることになった。アメリカはABCDラインという包囲網を構築し、日本に圧力を加えてきた。この米America・英Britain・中China・蘭Dutchの四国が同盟を結び、日本に経済制裁を加えてきた。特に石油の禁輸を、徹底した。

結論は冒頭にあるように、「あってはならない戦争を、日本とアメリカはやったのだ。その責任は日本とアメリカの双方にある」と。アメリカは最初から、日本を戦争に追い込むつもりだったのではないか。日米開戦までの経過を辿ると、そう思わざるを得ないのだ。対日戦争を考えて、アメリカが『オレンジ計画』なるものを構築していたことが、その証拠になる。

このことはアメリカ合衆国第31代フーバー大統領の回顧録、『裏切られた自由』にもハッキリ書かれている。第2次世界大戦中のアメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルト。彼は「戦争はしない」と公約し、大統領選挙に勝利している。それでも『ハルノート』と呼ばれる最後通牒を日本へ突きつけて、日本からの仕掛けを待って『リメンバー・パールハーバー (卑怯な宣戦布告のないままの日本の攻撃を忘れない) 』を言い続ける。

戦争はいけない。どうしても避けなければ、今の地球は破滅する。そんな時代に、『アメリカファースト』を叫び続ける男が大統領に就任している。11月の選挙でも、僅少差で勝利するだろう。トランプ大統領の考え方は『利己主義』そのものだ。日本はそれに『利他』を加えた考え方をすべきだ。しかし、決して孤立しないこと。

最後にマレーシアの元上院議員ラジャー・ダド・ノンチックさんの詩を

かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命尽くしてくれた
何千万人もの 人のなかには 少しは変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
いなかったわけでじゃない

でもその頃の日本人は そんな少しの いやなことや 不愉快さを越えて
おおらかで まじめで 希望に満ちて明るかった
戦後の日本人は 自分たち日本人のことを 悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
まじめに 自分たちの父祖や先輩は 悪いことばかりした残酷無常な
ひどい人たちとだったと 思っているようだ

だから アジアの国に行ったら ひたすら ペコペコあやまって 私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
そんな 今の日本人が 心配だ

本当に どうなっっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは 今は いつも 歯がゆくて くやしい思いがする

自分のことや 自分の会社の利益ばかり考えて こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人だろうか

自分たちだけで 集まっては 自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに ふけりながら 自分がお世話になって住んでいる 自分の会社が仕事をしている この国と 国民のことを さげすんだ目でみたり ばかにしたりする

こんな ひとたちと 本当に仲良くしてゆけるだろうか
どうして日本人は こんなになってしまったんだ




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| 社長日記 | 09:24 AM | comments (0) | trackback (0) |
父親の58回忌
今日は父茂の58回忌(自分で名付けている)の宵、なにも特別なことはしませんが、定番の墓参りに行って来ました。仏壇は、かみさんが毎日手入れをしてくれています。たまに私は手を合わせるぐらい、こんなことから墓守は自分の担当と自覚しています。とは言いながらこの墓も、長男が東京からの転職時に、整備してくれたモノです。一基が二基と霊標の3点セットになりました。私一人では、決して出来なかった。

松野家の墓地は、高松藩松平家菩提寺の法然寺にあります。恐れ多くも、殿様と同じ場所の一角にあります。父親存命の代には、上の方にもう1基2基ありましたが、今の場所にまとめて寄せ墓にしました。これがもう50年も前の話。墓地は永代使用権で、決して所有権ではありません。新規の墓を造るとなると、頭で何百万という大金を払い、後は毎年の冥加金の支払いとなります。

法然寺は檀家が殿様一軒だけ。殿様の意向もあり、地元仏生山町や周辺香川町の町民墓が数多くあります。墓地収入が、寺の運営資金だった推察します。昨今は手入れが優れていて、蚊の大群も少なくなりました。子どもの頃は、両親の仕事を終えて夜墓参りに行きます。夏はヤブ蚊に、特に子どもは餌食になって、「もう二度と行きたくない」と思ったモノです。

事象的な墓も私の気になるところですが、それ以上に「松野茂」という人間ヒストリーがどうだったか、知りたとい思いながら、テレビ番組の「ヒストリー」を見ています。私自身がよわい70近くになり、もはや父を語る人もいません。残されたアルバムを見ると、満州で働いていたという証言は理解できます。その後敗戦で引き上げてきたのだろうと思います。この頃父は、成人式の頃です。

その後わが母『サチ子』と、ミシンの行商先の熊本で知り合い、縁あって2人は仏生山町へ帰って1950(昭和25)年結婚式を挙げています。そして長男の私が1952(昭和27)年に、次男光明が翌年誕生しましたが、わずか1年で他界しています。次ぎに妹恵三子が1956(昭和31)年に誕生し、初めての女児で茂は大層よろこんだと聞いています。

ミシンの行商は、母親ミツヱの縁先の仕事に従事したものです。高松拠点で、どうして熊本かと、ここは今でも疑問であります。当時の交通事情を考えれば、母サチ子も今で言う海外へ嫁ぐ覚悟でなにも分からない仏生山町へ嫁して来たのだと思います。25日は、土曜日だったと記憶しています。暑い1日でした。そして23日は、孫「百笑ももえ」の誕生日でした。可愛い嫁の美保は26日誕生日です。ヒストリーは、前へ向かって進んでいます。


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| 社長日記 | 10:21 AM | comments (0) | trackback (0) |
パプアニューギニアへ財政支援表明茂木敏充外相
茂木敏充外相は21日、訪問先のパプアニューギニア(PNG)でマラペ首相と会談した。パプアニューギニアとは、髪の毛がちぢれた人が住む新しいギニアという意味。日本は新型コロナウィルスの感染拡大で、打撃を受けたパプアニューギニアへの経済支援を表明した。太平洋島しょ国に外交攻勢をかける中国を意識し、コロナ対策をテコに関係強化を急ぐ。具体的には観光業再建などへの財政支援を念頭に、詳細を詰める。

パプアニューギニアは、島嶼国の真ん中に位置し、日本とオーストラリアを結ぶ海上交通路(シーレーン)の要衝にあたる。会談では中国の活発な活動を踏まえ、日米が掲げる「自由で開かれたインド太平洋」構想を実現する必要性で一致した。日本は2021年に、島嶼国を招いて三重県で『太平洋・島サミット』を開く予定だ。背景には島嶼国に、中国が影響力を強めていることがある。

中国の攻勢を映すのが、島嶼国との国交問題だ。19年9月にソロモン諸島とキリバスが台湾と国交を断絶し、代わりに中国と国交を結んだ。台湾と国交を保つ国は世界で15カ国あり、太平洋地域ではツバルとパラオ、マーシャル諸島、ナウルの4カ国に減った。日本は島嶼国への支援を通じて、過度な対中傾斜を防ぐ。

外務省は、財政や債務管理の専門家を派遣する方針だ。中国から借りた資金を返済できず、中国に権益を奪われる『債務の罠』を防ぐ。3年前の2017年10月、私はパプアニューギニアのOISCAラバウルエコテック研修センター開設30周年記念式典へ参加した。日本の記念式典とは全く異なるイベントに、最初は戸惑った。

翌日だったか、同国日本大使館で日本人関係者に聞いたところによると、中国は仮に100億円の支援金だとすると、99億円は自国の建設資材費や労働賃金だとして持ち帰る。そこに『建物』を建設してくれるが、携わったのが中国からの労働者ばかりで、1年後の雨漏りは修理のしようがないという支援策。

日本は、時間がかかっても一緒にやって、『仕方』を教えてくれると現地での中国と日本のあり方を説明していた。しかしこの丁寧なやり方でも、中国の100億円に対して日本はせいぜい1割の10億円程度。この金額の差を『満足・安心』に変えているのが公益財団法人オイスカであり、ラバウルエコテック研修センターだ。

先の祭典に、パプアニューギニアの50以上の種族が、それぞれの衣装や化粧をほどこし、山を幾つも越えて研修センターへ来てくれて、来賓スピーチが終わったたびに、太鼓を打ち鳴らし踊る。弁当は支給したのかも知れないが、交通費などの支給は、全くしないそうだ。ラバウルでは、市場へも出向いた。『OISCA帽』を被っていた私は、突然大女に抱きつかれたりした。人食い人種がまだいると脅されたのだが、『OISCA』グッズを身につけていたら食われないとも言われました。

パプアニューギニアは、インフラもまだまだ整っていない。そこへ中国資本による投資が増え、通信機器大手の華為技術(ファーウェイ)は18年にデーターセンターを整備した。パプアニューギニアは中国への債務返済が滞り、財政危機に直面している。中国の広域経済圏構想「一帯一路」は、悪魔の魔手だ。日本はコロナ対策と称して、中国の野望を叩きつぶせ。


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| 社長日記 | 10:00 AM | comments (0) | trackback (0) |
ミノル・F・ウエキ・パラオ共和国特命全権大使のお話を聞く会
一昨日の小欄の続きで再登場される『ミノル・F・ウエキ・パラオ共和国特命全権大使』、2009(平成21)年10月3日、もう10年も前のことになりますが、東京港区ホテルグランドパレス赤坂で行われた『大使のお話を聞く会』の記事が、その当時の公益財団法人オイスカの広報誌『OISCA』に紹介されています。池田浩二事務局員が、送ってきました。職員だから『オイスカ愛』は当然ですが、それでも彼の『オイスカ愛』は濃い。



ミノル・F・ウエキ・パラオ共和国特命全権大使は、1931(昭和6)年パラオ・コロール州生まれ。御年89歳になります。1953年より58年までベラウ国立病院に医師として勤務された後、58年パラオ米国信託統治領厚生局長に就任。その後、ミクロネシア議会議員、パラオ国会上院議員などを経て、2009年より駐日パラオ共和国特命全権大使となる。

パラオ共和国は、日本の真南に位置する。首都はマルキヨク(2006年、コロールより遷都)。言語はパラオ語と英語。通貨は米ドルだが、現地通貨もあるとのこと。1年間を通じ亜熱帯気候で暑いが、四方を海に囲まれており、風も爽やかで過ごしやすい。7月から12月は雨季、1月から6月は乾季となる。

パラオの文化には、今でもスペイン統治(パラオは1895(明治28)年スペインにより発見されて、1899年までスペインに支配されていた)以前の固有文化が変わることなく生き続けている。この独特の文化を守るため、現在も、年配者が若い人にパラオの伝統品の作り方や伝統的な建物、そして、様々な歴史、物語などを伝えている。

パラオは1899年に、スペインからドイツに売却された。その5年後の1914年(第1次世界大戦が始まる年)には、国際連盟の決定によりパラオは日本の委任統治になりました。日本の統治が30年間続き、この間にパラオに移住した日本人は、5万人以上に上ります。日本人たちは、パイナップルなどを生産し、缶詰工場もつくりました。

太平洋戦争後、パラオはアメリカの信託統治領となりましたが、1981(昭和56)年に憲法を施行し、自治政府を発足させ、1994(平成6)年10月1日に独立しました。パラオには、約300もの島があります。総面積は488平方㎞、屋久島とほぼ同じ広さです。ここに約2.1万人の人々が暮らしており、その約4倍もの8万人の人々が観光に訪れます。

農業は余り盛んでなく、一部で行われている程度で、農産物の90%が輸入に頼っています。これを、改善していかなければなりません。ここに、オイスカの力が必要です。オイスカがパラオにやってきたのは、1980(昭和55)年です。同年10月、オイスカ・パラオ支局が開設されています。そして翌81年に九州の方々が中心となり、オイスカ・パラオ研修センターを造って下さいました。

そしてオイスカによる技術指導は、1998(平成10)年まで続きました。現在、研修センターには日本人の技術者はおりませんが、パラオの人たちによって順調に運営されています。目指すのは、村の人々の収入を生み出すこと、輸入を減らして自給自足することです。私は着実に組織づくりを進めており、オイスカから短期でも技術指導員に来てもらいたいと考えています。

パラオ人は、オイスカの精神が大好きです。パラオの将来にとって、オイスカの技術指導は絶対に必要です。現在台湾による指導協力がありますが、化学肥料を使っています。私が目指すのは、有機農業です。パラオの発展のためにも、オイスカの技術を導入していただきたい。80年当時、黒木先生が指導してくださった炭焼きがありましたが、今は輸入に頼っています。

現在オイスカインターナショナルの一覧に、パラオ研修センターはありません。20年前は、日本国からの資金援助がオイスカにありました。今は、自分たちで集めた『寄付金・会費』での海外支援です。『パブアニューギニア』には、『ラバウルエコテック研修センター』があります。明日の小欄は、22日の日経新聞に掲載されていた「茂木敏充外相パプアへ財政支援表明」関連記事を紹介します。私はラバウルエコテック研修センター設立30周年記念式典で、現地を見てきました。


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| 社長日記 | 09:43 AM | comments (0) | trackback (0) |
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