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ついに雪不足でスキー場破産へ
島根県浜田市のスキー場「アサヒテンクストン」の運営会社が、雪不足を理由に自己破産する準備に入ったと18日、発表された。私の心配が、現実のモノになってしまった。このスキー場は比較的新しく、広島県との県境にある。隣が「瑞穂スキー場」だったと記憶している。ここ数年は全く行かなくなったが、行ったことは数回あります。

うどん県からスキーへ行くのは、古くは「鳥取県の大山」や「兵庫県の山」と決まっていたモノですが、「アサヒテンクストン」のような新しいスキー場が、20~30年位前から出来た。特徴は、滑るためだけのゲレンデで、レストハウスはありますが、宿泊施設は全くありません。日帰りの若者相手のスキー場です。もう一つの特徴は、高速道路インターから至近距離にあること。チェーンの装着も、運が良ければ要らない。

今シーズンは、暖冬の影響で1日も営業が出来なかったという。運営する「ユートピア・マウンテンリゾート」によると、暖冬だった昨シーズンは約6千人が来場し、売上は約2千万円。今年も数千万円かけてリフトの整備などを進めたが、ほとんど積雪がなく営業に至らなかったという。同社によると、負債総額は約2千万円、意外と少ない。将来的にも、雪不足が続くと読んだのかも知れない。

松江地方気象台によると、昨シーズンに浜田市で雪が降ったのはたったの26日、今シーズンは、今月17日までに5日しかない。これでは雪不足と言うより、雪皆無と言った方が適切な表現かも知れない。過日の東北、山形・秋田でも雪は10分の1程度と住民はいう。全国的に雪不足だが、これがまたこれからの水不足につながる。雪解け水があるから、酒造りとか生活のための営みが出来るわけだ。

ここの「アサヒテンクストン」などは、新しい考え方で設計されているが、それにしても客単価が3千円余りでは、そもそも商売にならない。スキー客と言っても「スノボー」が多くて、道具も安くてこちらも儲からない。若者は滑ってすぐ帰るが、おじさんは宿泊してワイワイガヤガヤが好きだ。1泊2日でも3万円以上使う。そして遠くへ来て、1泊とは普通ならない。

もう随分昔の話になるが、宿やホテルがあるところは、もう50~100年の歴史があるところだが、「村あげてのスキー場」だった。山深い雪国に、冬の仕事はない。だから男衆は、「出稼ぎへ」行っていた。それがスキー場が出来たお陰で、冬の仕事が出来たモノだから、出稼ぎへ行くこともなくなった。村の衆が、大変喜んだわけだ。

それに私たちの世代は、家族や友達と一緒に団体で駆けつけていた。学生時代は東京から長野へ夜行列車で1週間ほど行ったものだが、うどん県からも、鳥取県の大山や、兵庫県・滋賀県ぐらいまで行ったモノです。雪も減ったが、スキー客も減った。60過ぎてからは、私も遠ざかっています。スキーにゴルフ、時代と共にブームは終わった。今でもやっている人は、本当に好きな岩盤ファンであります。


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| 社長日記 | 09:05 AM | comments (0) | trackback (0) |
親子で楽しむ庄内論語1
致道館(ちどうかん)は、庄内藩の藩校。所在地は山形県鶴岡市馬場町11-45。文化2年(1805年)、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まる。当時は現在の鶴岡市日吉町にあったが、文化13年(1816年)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内に移された。明治6年(1873年)廃校。
東北地方に現存する唯一の藩校建造物で、孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は国の史跡に指定されている。ここで、
先に小欄で紹介したように、ここで標題の小冊子を買い求めた。私は恥ずかしながら、論語の勉強をしたことがないのです。藩校での教科書に使われていたと聞き、迷わず買い求めた次第であります。中身を拝見すると、現代訳もつけられていて、今に通じるモノがあります。夫れ故、大勢の人が今でも論語を学ぶのだと悟りました。

その小冊子の中に、令和元年10月の「庄内日報」の記事の切り抜きが入っていました。致道館の日第11回児童生徒論語作文発表⑤で紹介された上郷小学校5年生石川心菜さんの作文です。彼女のお気に入りの論語は、以下のモノです。

「子曰く。之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」この論語の意味は、「先生がおっしゃいました。ものごとを知っているだけの人は、それを好きになって必死にやっている人に及ばないモノだ。必死にやっている人は、それを楽しみの境地でやっている人に及ばないモノだ」。

彼女は習い事を二つやっているが、「楽しんでいるか」と言われると怪しいと自戒している。理由は、習いごとをしている時、時々、心が乱れている気がするとも言っている。だから、「知ったら好きになる。好きになったら楽しむ」を忘れずに、上手になりたければ、他の人よりも誰よりも練習をして、楽しんでやることだと思いましたと。

流石に、新聞に取り入れられるだけのひらめきのある文章でした。不定期に、またこの小冊子からネタを取り上げることにします。そして少しだけ、ここから学ぶことにします。過去に古文の勉強にも行きましたが、やはり解説がないと心許ないモノです。逆にここには現代訳があります。助かります。


| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=4794 |
| 社長日記 | 12:30 PM | comments (0) | trackback (0) |
讃岐の著名人平賀源内は角館に滞在して解体新書に貢献
秋田県仙北市角館町の武家屋敷について、昨日の小欄でも書きました。偶然入った「青柳家」の資料の中に、郷土の発明家・平賀源内の名前が各所に出てきて、一同ビックリ。「こんな所より郷土で頑張らんと」という声もありましたが、彼は高松市郊外の志度町に生まれ、上京しています。

簡易発電装置の「エレキテル」とかを発明したり、ユニークな人物だったと地元では言われております。土用の丑の日を制定したのも、彼だったと聞いています。そのネーミングのお陰で、今では考えられない、売れなくて困っていたウナギが飛ぶように売れたのでした。私も長男の小学校卒業記念プチ旅行で、この平賀源内記念館へ二人で行きました。ここには、平賀源内の偉業の一端が展示されています。

平賀源内が地元ではともかく全国区でない一番の原因は、土佐の「坂本龍馬」のように、活躍を物語紹介した本がないことではないかと考えます。坂本龍馬ブームは、司馬遼太郎の「竜馬が行く」が爆発のきっかけだったと言われていて、私もそのように理解しています。「竜馬が行く」は幕末維新を先導した坂本竜馬の劇的な生涯を中心に、同じ時代をひたむきに生きた若者たちを描いた大歴史ロマン。

「竜馬が行く」は司馬遼太郎が書いた、長編時代小説で、司馬遼太郎がかつて勤務していた「産経新聞」夕刊に、1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。1974年に文春文庫創刊に伴い全8巻で刊行、単行・文庫本ともに改版されている。今から60年近く前ですが、「竜馬ブーム」はこの後からでした。

たびたびドラマ化もされ、現在の竜馬像はこの本で形づくられたと言っても過言ではない。累計2500万部の国民的ベストセラー。弱虫の末っ子だった竜馬が、19歳で江戸へ出て高知の田舎しか知らなかった若者が、見たこともない江戸の街や人と交じり合うところに、竜馬の成長があり、日本人の生活向上のエネルギーにもなりました。

話を平賀源内に戻しますが、青柳家と姻戚関係になる小田野直武は、平賀源内に師事、秋田蘭画を確立し、『解体新書』の挿絵を描き、その名を高めました。西洋の陰影法を取り入れ、後の洋画界に大きな影響を与えた秋田蘭画は、小田野直武と、時の秋田藩主・佐竹義敦によって完成されました。









『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、1774年(安永3年)、江戸で発刊されました。翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢等ですが、発刊と同時に評判となりベストセラーになりました。『解体新書』が当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図の付図1巻がついていたことです。この人体解剖図を描いた画家が、小田野直武です。

青柳家と小田野直武は姻戚関係にあり、何度も互いの家の間で養子縁組みや婚姻関係を結んでいます。青柳家と関係の深い小田野直武と『解体新書』、その画業について展示しています。「みちのくの小京都」と称される、風雅な町並が残る秋田県角館。江戸中期、学者、画家、発明家など多方面で活躍した平賀源内は、秋田藩に招かれ、角館に滞在しました。

その期間は、わずか1か月でしたが、角館に花開く文化の発展に寄与しました。地元の文化を広く紹介する「角館歴史村・青柳家」。源内の薫陶を受けた美術作品が、ここに展示されています。洋画の陰影、遠近法を日本画に取り入れた秋田蘭画です。大胆な構図の風景画は、後に北斎、広重にも影響を与えたと言われています。

また、青柳家では大変貴重な「解体新書」の初版本を展示しています。実は、この挿絵を手がけたのは、秋田蘭画の画家。なんでも源内が強く推薦したのだとか。当時、最先端の文化を角館にもたらした平賀源内。
もしも源内がこの地に滞在していなかったら、現在とは異なる歴史になっていたかも知れません。説明書には、このように「よいしょ」されています。

今回の研修では、生駒藩のことを由利本庄市矢島町ではじめて知り、郷土の偉人・平賀源内がこの地まで招聘されて、秋田蘭画にまで影響を与えていたことを知り、大変有意義なものでした。ありがとうございます。



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| 社長日記 | 09:18 AM | comments (0) | trackback (0) |
角館の武家屋敷と横手のかまくら
鳥海山木のおもちゃ博物館から今度は貸し切りバスで、秋田県角館(かくのだて)の田町武家屋敷ホテルへ到着。チェックインして、急ぎ横手市の「かまくら」会場に向かいました。400年の歴史があると言われている「かまくら」ですが、今年は雪が降らなくて「札幌雪まつり」と同じように、雪を山から運んで来たと聞きました。

おもちゃ博物館内の実用キッチン

おもちゃ博物館全体

おもちゃマイスター

おもちゃ作家さんのくみこ

横手市庁舎前当たりに屋台村があり、この裏通りあたりにかまくらが点在しています。偶然通りかかったところに、「横手ライオンズクラブ」のかまくらがあり、メンバーと歓談しました。マスクの、無料配布をされていました。高松からは、「高松ライオンズクラブ」メンバーが3人と、「高松栗林ライオンズクラブ」の私の4人がいます。ここで耳寄りな情報を聞きつけ、川岸での小かまくら群を見に行きました。

かまくらは私も初めてですが、一つ二つ見るともう良いです。途中のさかな屋店頭で売っていた「豚汁」と「熱燗」を買い求め、大変満足しました。店の中には、常連さんらしき客が10人程度。大変盛り上がっていました。トイレの中には「壇蜜」のポスターがあったりして、落ち着かない店でありました。それでも踵を返して、市役所前のグルメゾーンへ到着。「地元産ホットワイン」に、「横手やきそば」を堪能しました。







その他大勢の見学者をあてこんで、「岩手県釜石」からのホタテ焼きなども来ていました。このかまくらは、15日16日両日だけのイベントらしく、前日の前夜祭があったとしてもこれだけの準備で3日間というのは意外でした。昼もやっています。30年間12月の寒空で行った「高松冬のまつり」でも、一週間程度はやっていました。

ホテルから行きは、丁度ラッシュ時間にあたり75分、帰りは20時から60分でした。ホテルへ帰って、水を探し求めて付近を歩きましたが、方向が違ったのか、人っ子一人歩いていません。おまけに近づくと、警報器が鳴ってランプが光る家まであって、空き家だとは思いますが、「泥棒と違うねん」と思わず口にしてしまいました。それも往復の2度。

自販機でペットボトルの水を一本買い求めてホテルへ帰ってくると、歩いて温泉へ出かける仲間と遭遇。水はホテル裏のコンビニにもあるし、部屋の冷蔵庫にも2本入っているとか。ほんまか(偶然だがこのあたりは本間姓が多い)、ほとほと。かみさんも後から気づいたようで、帰ってくると笑っていました。20分程度は、夜の角館寒空探訪をして来ました。

さて本日は、その角館の正式探訪です。よく似た武家屋敷群ですから、偶然通りかかった「よみがえる文化遺産・みちのく小京都角館歴史村青柳家」へ5人で突入しました。恐らく一般財団法人組織だと思いますが、立派に保存がされています。ここは、国選定重要伝統的建造物群・秋田県指定史跡・秋田県文化財でもあります。

400年の歴史を語る武家屋敷。芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った青柳家は、芦名断絶後佐竹北家に仕え、南部境目役を務め、主君の繁栄を支えたと書かれています。屋敷内に建物も15棟ほどあり、入場料500円と、ハイカラ亭での抹茶セットが560円でした。お菓子は、自家製とのこと。大変美味しゅうございました。

その後は大曲(花火で有名)ICから秋田自動車道へ乗っかり、庄内空港を目指し2時間半。おいしい秋田こまちと、由利牛を食しました。田んぼも広いし米も美味しい。移動も遠い。高松からの直線距離が約800㎞だと聞きましたが、岩手県一つで四国4県と同じと言うだけあって、東北はやはり広いですね。

庄内空港から成田空港で乗り継いで、高松空港へ予定より1時間遅れで帰ってきました。庄内へのジェットスター便が遅延し、途中成田空港での乗換では汗をかきました。どうにか高松便に間に合って、定時に搭乗したモノの、空港混雑で離陸できず、結果到着が1時間遅れました。

今回の旅で、これまで知らなかった高松市と由利本庄市矢島町の生駒公を介した交流の深さを知りました。それもあんなに丁寧に歓待して下さる矢島町の人々のご厚情、何度かここへ来ている馬場朋美さんや、四角整子さんはともかくとして、私たち初めての夫婦にまで、ありがとうございました。

今日以降小欄に書きますが、「南洲翁遺訓(読み仮名付)」「南洲翁遺訓に学ぶ第四販」「親子で楽しむ庄内論語」の入手は幸運でした。探し求めて、閉店間際に買い求めが出来ました。そして角館の武家屋敷、横手のかまくらと短時間で多くのモノを得ることが出来た旅行となりました。テレビは「NHK」と「テレ朝」系の放送が多かったのですが、連日新型コロナウィルスの感染が広がっていることが報道されています。既に日本人女性の死亡が出ているニュースも聞き及んでいます。一日も早い収束を、祈念しております。そうそう成田空港内では、マスク着用が常識のようでした。


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| 社長日記 | 09:50 AM | comments (0) | trackback (0) |
曹洞宗金嶺山龍源寺から角館へ途中で鳥海山木のおもちゃ美術館
昨日フォレスト鳥海へ到着したのは19時少し前で、すっかり暗くなっていて、周りが良く見えなくて、そして愉快な矢島の住人と楽しく呑んで、早く寝ました。すると今朝は、6時には目覚めて温泉に浸かりました。塩化ナトリュウム系の、肌にぬるぬる感がへばりつくあの温泉らしい温泉でした。

フォレスト鳥海は、山深いところにあるようで、朝食後30分もバスが下り、由利本庄市矢島総合支所(清水隆司総合支所長)へ到着。まず矢島町歴史交流館(道益苑)で、平成11年に当時の増田昌三市長、諏訪博文市議会議長が姉妹都市提携した時の写真と署名を拝見しました。讃岐高松藩17万石余の領主生駒家四代生駒高俊公が、故あって幕府の領地収公にあい、寛永17(1640)年1万石で矢島藩に移封となったご縁であります。



その後も小学生同士の交流もあり、またスポーツ少年団の行き来もあったようです。それで昨日の交流会に、前・元・現矢島小学校校長先生が駆けつけてくれた次第です。その後、生駒藩菩提寺の龍源寺へ。ここの本堂は実に立派で、平成16年に国登録有形文化財に指定されていますが、屋根が茅葺きであります。1623年に、打越左近光隆の手によって建立されています。

この寺の御本尊はお釈迦様で、本日2月15日がお釈迦様の命日だそうです。生まれは私と同じ4月8日でありますが、しかしすべてが旧暦です。従ってここ龍源寺でも、3月15日に涅槃会大法要を営んでいるようです。加えて5月第二日曜日(今年は10日)には、生駒家の遠州流茶道「第18回矢島茶会」が予定されています。









ここ矢島は、生駒公をお迎えして自分たち祖先が、生駒公の指示の元まちづくりをしたという自負があります。新聞ネタですが、「矢島高存続へ応援する会」が昨年12月に発足しています。その会長に昨日の交流会で一緒のテーブルだった、元副市長の藤原由美子(70)さん。副会長は、隣席にいた茂木好文(73)さん、名刺を3枚頂いた佐藤健一郎(67)さんら。

矢島高の前身は、大正15年に設置された矢島町立農業補修学校の農業専修科。昭和の初め、学校に農場を整備する際、町の篤志家が寄付金や土地を提供した。「住民たちでつくった学校」という自負と、守らなければとの熱い思いがある」(茂木さん)という。すべてにおいて、生駒顕彰会がになっているようです。

また矢島は、由利高原鉄道鳥海さんろく線の起点で、ここから8つ目の湯川駅までこの「ひな祭り号」に搭乗します。もちろん一両単線ですが、コトデンよりローカル線でした。湯川駅に降り立つと、送迎バスが待機しています。ここから5分かけて、「鳥海山木のおもちゃ博物館」へ。ここは小学校跡地を活用し、木造の校舎を実に上手く使っています。稼いで、組織を維持しています。


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| 社長日記 | 08:44 AM | comments (0) | trackback (0) |
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