2018,11,20, Tuesday
民営空港になった高松空港を運営する「高松空港株式会社」は19日、来年4月下旬のゴールデンウィーク前を目処に、現存の駐車場の西端に4段(階)で600台収容の立体駐車場を整備して、400台増の約1400台の駐車場を備えると発表した。前任のビル責任者も、「無料化は考えていない」としていたが、利用客にとって有料無料より、置けるか置けないかが重大関心事項。万一置けなかったら、搭乗に遅れかねない。
空港前駐車場は、現在1009台分の駐車スペースがあるが、夏休みや年末年始などの繁忙期に、満車になる時間帯がたびたび発生するなど、慢性的な混雑が課題となっている。またこれからの路線拡張や、南海・東南海沖地震が予想され、駐車場の拡張は喫緊の課題でありました。四国4県の空港で、高台にあるのは高松空港だけです。災害時には、恐らく中四国の拠点になると思います。 ところが空港の設計から、これ以上の平面駐車スペースの確保は無理があり、空港から離れたところに第2第3駐車場を作ることも検討されたと思いますが、消去法からも立体駐車場を整備する方法が選ばれたように思います。確かに女性ドライバーを中心に、立体駐車場は嫌だという意見もありますが、料金格差を付けるなどして積極的利用を促してほしい。 また同社は空港の活性化に向け、旅客ビルの増設やリニューアルなど、本年度から5年間で総額74億円の投資を計画している。駐車場整備もその一環で、「今後も四国瀬戸内ナンバー1の国際空港を目指し、香川や四国の人たちが利用しやすい環境作りも鋭意進めたい」と話している。環瀬戸内海とは、四国では徳島・松山、中国では岡山・広島空港等を指す。 工事は12月10に着工することから、年末年始は混雑が予想され、その際の駐車場不足は、近隣商業施設と連携した「パーク&バスライド」で取り組む方針。周知が徹底するかどうかが鍵だと思うが、年末年始は工夫がいりそうだ。それでも災害時の空港利用を考慮しても、「パーク&バスライド」の試行は有効だと思います。四国新幹線構想が、空港に影響を与える相乗効果かなと思います。 いよいよ高松空港の地方空港としての格が、最高位に近づくのですが、残るは「霧対策」。これには金がかかりすぎると言うのですが、空港側でなく飛行機側で対策をする方法が在り、こちらだと随分安くなるという専門家の話も聞いたことがあります。外国の空港では既に、取り入れているところがあるようです。私もたった一度ですが、羽田からの便が高松着陸できず、大阪伊丹へ降りたことがありました。 |
2018,11,19, Monday
高松市のサンポート高松に、2023年度の完成を目指している新県立体育館の基本・実施計画業務について、香川県は14日、コンセプトを評価した6月の公募型プロポーザル審査で最優秀に選ばれたSANAA(東京)と2億8998万円で契約したと発表した。この体育館は、スポーツ競技はもとより、イベント会場アリーナとしての利用が、大いに期待されている。
高松に、大型アリーナはない。香川県全域でも、野外会場でやっている「モンスターバッシュ」は若者にも人気があって、県外からも何十万人の観客を集める。あれは野外で盛り上がれば、多少の雨も厭わない仕掛けで進むが、コンサート会場としては、屋根が必要だ。サンポート高松の立地は、旧高松港の宇高連絡船波止場付近を埋め立てて作り、国際会議場やサンポートホール、クレメントホテル高松などが集積する一等地。 そこにはJR髙松駅や、離島フェリーの発着場となっていて、私鉄コトデンも乗り入れている。今やJR髙松駅は、鉄道駅の機能と高速バスのステーションとしても、活躍している。アリーナの立地としては、ここしかないという場所にある。現存する県立体育館は、丹下健三氏の設計になるもので、利用は中止しているが県としては建築遺産として、壊すに壊せない代物になっている。 丹下健三氏は、建築家。愛媛県生れ。東大教授。代表作は広島平和記念資料館・東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)・東京都庁舎などを手がけた。文化勲章。(1913~2005)という偉人で、香川県の当時の金子正則知事(戦後、1946年に東京控訴院部長となって翌日付で退職し、郷里の丸亀市で弁護士を開業した。 翌1947年に香川県副知事に就任。1950年に、香川県知事選挙に出馬し当選。6期24年にわたって知事を務めた)と親交があったようで、旧香川県庁舎も丹下健三氏の設計になる。しかし今となっては、面影を残すのに多額の耐震補強費を要しているが、県民の多くは残すことに賛成している。 今回のプロポーザル審査で選ばれた、SANAA(東京)には、世界的に活躍する妹島和世氏、西沢立衛氏らが所属する設計事務所。併せて170億~190億円の建設コストの管理や基本計画の諸条件を守ることも義務づけている。私は、高松の玄関口のランドマークだけにここ一番、多少の出費は必要だと大いに賛成する。 シンガポールのマーライオン、オーストラリアシドニーのオペラ座、一目瞭然の建築部になることを期待している。賛否両論あることは承知しているが、サンポート高松に位置する国の合同庁舎も1号館2号館と完成し、国の出先はほぼすべて収容された。「無駄だ」という意見もあるが、これで四国内の出先は「郵政」と「林野」を除いて高松の合同庁舎に結集した。 私は最近、中国地方の結集が広島市から岡山市へ移りつつあるように感じています。もちろん国の出先関係では依然として広島優位ですが、民間のイベントでは公共交通網や高速交通網の関係、またJR岡山駅周辺の施設整備などから、岡山で開催されることが増えています。四国から、山陰方面からも行き来しやすいのです。高松の場合は、日本一小さな香川県の県都、この利点結集がより求められると思う。 |
2018,11,18, Sunday
ついに、この日を迎えることが出来ました。平成25年1月3日の同窓会に端を発した、新旧乙女像の入替。5年が経過し、年が明ければ6年になります。今日はそんなわれわれに、天も味方して、快晴の暖かい一日を下さいました。天気予報では土曜日が一時雨、日曜日も怪しそうな予報を出していました。それが、これ以上無いという秋の晴天。彫刻家・萬木淳一氏は、「私は晴れ男で、ことある時はいつも晴れ」と。
8時から私と武藤忠数の二人で、かねてからの打合せの通り、準備を進めます。二人の関心事は、除幕式の幕が「どうぞ」のかけ声と同時に、「ヒラー」と落ちるかどうか。この一点にかかっています。萬木淳一氏のアトリエに呼ばれてレクチャーを受けましたが、経験が無い私は、正直なところよく分かりません。 かみさんに頭を下げて、ネット検索して、除幕用の幕とリボンと、紅白ひものイメージを頭に描き、「手芸センタードリーム」へ2人で行ったり、イベント用品専門店の「山宝」へ行ったり、試行錯誤を繰り返しました。かみさんとも喧々囂々、彼女は糸偏業界のプロ、元洋服屋さんですから布には精通しています。素人の私は、口でも勝てません。 養生用の布とビニールを取り去り、自宅で作った布を像に被せてみます。風もあって、どうしても部分留めをしないと、乙女の手や足が出てしまいます。武藤忠数が私の自宅へとって返し、針と糸を持ってきて、自ら修正をかけてくれました。一難が去りました。この頃になると司会役の大西一正さんや、濱井晴美さん佐伯博英さんらが集まります。 お客様も三々五々、暖かい日差しに誘われてやって来ます。最終的には50名ほどのお客様になりました。滕神社の入魂神事が終わり、いよいよ除幕式です。数人の呼び出しの後、延長した綱に大勢の参加者が参加してくれました。私も2本のうちの1本の先頭の挽き役を努めましたが、私はほとんど力を入れていませんが、布は「するり」と予定どおり、いやそれ以上に上手く降りて来ました。平成乙女の像が登場しました。 この前後の動画静止画を、松田展和ご夫妻が克明に撮影して下さり、2時間後にはCD(静止画)とDVD(動画)が届きました。驚くほどのスピードと、素人はだしの画像の美しさです。天候に恵まれたことも大きくプラスに影響してくれていますが、二人して日曜日の団らん時間に、本当にありがとうございます。数日後には「ユーチューブ」にアップする予定です。私も気がつかなかったのですが、集合写真を撮り逃がしました。 さらにこの日のために、「平成乙女の像」を称える歌が出来ています。「いわざらこざら物語」、同窓生の松本悦子さんが多方面に掛け合ってくれて、演歌調ですがそれらしい歌が誕生しています。作詞小比賀剛一・作曲岡本正・唄岡本由美子、すでにホームページにアップしています。是非ご堪能下さい。 ここまで250人団体から、6,030,041円の募金を集めました。見積書から、まだ70万円ほど不足しております。そのため募金者のご芳名は、仮書きして記念碑の裏に掲載しています。その表には、初代昭和乙女の像建立に尽力された「久保愛子さん物語」と今回の平成乙女の像を作るに至った経緯を金属に刻んでおります。 まだ完了ではありませんが、入魂除幕をもって、一応の完成をみました。彫刻家・萬木淳一氏をはじめ、黒谷美術㈱立山工場のみなさま、㈲庵治石彫工房の太田明彦さん、冨士マーク製作所冨山貴司・冨山稔さん親子、㈱さつき金属工房中西専務、そして募金して下さいました250人の皆様、とりわけ最初から最後までつきあってくれた、同窓生の武藤忠数さんにひたすら感謝申しあげるところであります。 平成乙女の像ホームページへ |
2018,11,17, Saturday
大名家墓制の貴重な資料として、国の文化審議会は16日、高松市仏生山町とさぬき市にある「高松藩主松平家墓所」を国の史跡に指定するように柴山昌彦文部科学相に答申した。近く答申どおり告示され、県内で初めての国史跡の大名家墓所となる。四国では、徳島藩主蜂須賀家墓所(徳島市)、土佐藩主山内家墓所(高知市)に続き3件目、全国では27件目。
県教委は、「特に法然寺の墓所は境内も含めて浄土宗の極楽浄土を具現化した空間構成で、一つの思想をここまで反映した大名家墓所は全国でも例がない」としている。法然寺は、松平頼重公が再興して菩提寺としており、県教委は、「頼重公が当初から後の藩主の墓まで考えて計画的に作ったのではないか」としている。 仏生山町周辺では頼重公の諡(おくりな=戒名)、龍雲院殿雄蓮社大誉孤峯源英大居士の「龍雲」を冠した名前が多い。「龍雲地区・龍雲中学校・竜雲うどん」など、「龍雲」を頂く。最も頼重公のおくりなは、「りょううん」だそうで、「りゅううん」とは違うのだが、われわれ町民は違和感なく「龍雲」を使っている。 因みに今の御当主は、14代松平頼武氏(学校法人本郷学園理事長)で、私も一度だけ学園を見学したことがあります。17日が東京香川県県人会総会、殿が会長です。会長の話にも、「国史跡」のくだりは出るだろうし、浜田恵造香川県知事の口から出るかも知れない。「松野、今年の県人会はどうする」、という話しを頂きますが、明日が5年を費やして除幕する「平成乙女の像」。今年は準備も重なり、動けません。 ところで墓所には二つの特徴があり、一つは生前の身分に応じて埋葬位置や墓石の大きさなどが明確に区分されており、階層性が認められること。もう一つが空間構成。墓所への参道は、南北両側の前池と蓮池跡(現仏生山小学校)との間を抜けるように整備され、墓所は真西に位置する。これは、浄土宗の極楽浄土の思想を忠実に表現しているという。 墓所は出城の役割を果たしており、殿の滞在中は、厳重警護です。参道は池に囲まれ、背後は絶壁に近い岩場。12の井戸に3つの米蔵があった出城と、聞いています。また殿は、門前町の賑わいを作るべく、玉藻城下の麺職人をこの地仏生山町へ移住させ、素麺づくりで町の繁栄を仕掛けました。最後の素麺処が、私の松野製麺所(㈲誠幸麺業)でした。廃業に伴い、法然寺の竜雲学園に一式買取をお願いしました。今は境内で、美味いうどんが販売されていて、長蛇の列です。 また法然寺には、「西の寝釈迦」と呼ばれる釈迦像があります。また江戸時代の古図にも記された「五重塔」が、東日本大震前の2011年2月に場所を変えて完成し、その後、落慶法要が町挙げて提灯行列などで行われました。また頼重公の墓参を再現した「仏生山大名行列」が、四半世紀にわたって続いている。 この法然寺の鎮守杜として、真東方向に滕神社(ちきり)があり、神社の正面が西へ向いている全国でも珍しい作りになっています。そして墓所のその西100mに、18日に入魂&除幕式を迎える平成乙女の像があります。その前の発表、聞いてはいましたが新聞記事として紹介されるととてもうれしい。 |
2018,11,16, Friday
京都市は15日、京都の近代化に大きく貢献したとして、西郷隆盛の長男で2代京都市長を務めた西郷菊次郎(1861~1928)に特別感謝状を贈呈し、菊次郎の孫にあたる陶芸家、西郷隆文さん(70)が受けとったと報道されています。菊次郎は明治37(1904)年日露戦争開戦前後に、43歳で市長に就任。第2琵琶湖疏水建設など「三大事業」を進め、京都の都市基盤を整備した功績です。
西郷隆盛の子どもについては、私はよく知らなかった。奄美大島に流された時に、島の娘と懇ろな関係になったというのは、大河ドラマで見ました。西郷隆盛には2番目の妻・愛加那(あいかな)との間に2人、3番目の妻・糸子との間に3人の子供がいたようです。菊次郎の「菊」は、隆盛が奄美大島で名乗っていた「菊池源吾」からついたといわれています。 西郷隆盛の長男で、愛加那との間に生まれた菊次郎は、9歳の時に鹿児島の本家に引き取られました。大河ドラマ「西郷どん」でも、そのように描かれています。アメリカ留学を経て、17歳の時に父とともに西南戦争に従軍します。ここで右足に被弾、膝下切断の重傷を負い、叔父・従道に投降しました。同族も敵味方の争い、隆盛の弟・従道は菊次郎の投降をとても喜んだそうです。 留学経験を生かして外務省に入省した菊次郎は、日清戦争後に下関条約によって日本が得た台湾に派遣されます。ここでは宜蘭支庁長として、現地のインフラ整備や教育普及に尽力し、今も現地で敬愛されるほどの功績を残しました。 帰国後は京都市長を6年半務め、発電や上下水道、市電の整備を推進し、近代京都の都市基盤を築き上げます。この功績で、上の特別感謝状の贈呈になったわけです。しかし足の怪我の後遺症のため辞職し、その後は鹿児島で金山の鉱業館長を務め、昭和3年(1928)に67歳で亡くなりました。 日経新聞の片隅の記事ですが、これがきっかけで私の中に西郷隆盛の知らなかった部分に光が当たりました。西郷隆盛と言えば私は、「西郷南洲翁遺訓」へ思考が短絡します。早く親を亡くした子らが、逞しく生き抜いたというのは、嬉しい勇気をもらう話しです。息子から見た西郷隆盛、上野の銅像は西郷隆盛に似てないと妻が証言したというのも聞きました。稲盛和夫塾長は西郷隆盛を絶賛するのですが、息子らからの父親評も是非聞きたい。書かれたものがあれば、ご教授を。 |