2018,11,24, Saturday
皆様からの支援を頂戴して、11月18日(日)に平成乙女の像が姿を現しました。旧像昭和乙女の像は、白セメントで作られて、文字通り白色でしたが、このたびの新像は黄金に輝いた、幻想的な平成乙女の像になっています。通りかかった人からも、寄付の追加が寄せられています。しかしまだ50万円ほど不足しており、追加追加で皆様へお願いしています。
その平成乙女の像の18日の動画が、松田展和氏によってユーチューブへアップされ、「平成乙女の像」で検索するか、以下の「特定非営利活動法人仏生山魂再開発フォーラム」のホームページでも見ることが出来るようになっています。同時に「いわざらこざら物語」と題した歌も、ホームページで紹介しています。 旧像は約50年前に「久保愛子さん」らの努力によって作られ、半世紀ぶりに新しくなった平成乙女の像は、ブロンズ像になり、またみなさまへ情報をお伝えする方法も一段と進化しております。彫像は、新旧共に香川県文化功労者彫刻家・萬木淳一氏によるものです。 場所はコトデン仏生山駅から南、ガソリン道を上ったところ、2つ目の信号を左(東進)へ、途中から分岐する道を平池堤へ上がるように進むと、左手に黄金色に輝く平成乙女の像があなたをお待ち申しております。記念碑は、裏面の募金者芳名板が仮書きになっております。必要額に達したら締め切って、正式な芳名板を作り設置します。 特定非営利活動法人仏生山魂再開発フォーラム |
2018,11,23, Friday
興味深い標題の講演が、23日の勤労感謝の日、香川県民小ホールで開催されました。高松城天守再建の構想に、大西秀人高松市長も熱心で、NPO法人も精力的10万人賛成署名を集めています。私も署名しました。中心人物は、地域活性化伝道師古川康造丸亀町商店街振興組合理事長や、料亭二蝶の徳永孝明氏、花樹海のオーナー三矢昌洋さんら、そうそうたる人物が名を連ねています。
それも今日の、三浦正幸(広島大学名誉教授)氏の話を聞いて納得。高松城天守は、規模からして1位の名古屋城に次いで全国2位の大きさと推定されているから。つまり、天守再建の価値のある城と言われています。因みに「天守」と言えば「天守閣」が一般的ですが、この天守閣という呼び名も「高松城」が全国初だそうです。 江戸時代の平城(山城に対して)は、全国に200あったとされるが、本当の平城(何を根拠に本当というのかは不明)は、20だけという。高松城も勿論平城。もう一つ高松城は3大水城(海城)といわれているが、高松城の手本になったといわれている「小倉城」と隣愛媛県の「今治城」、そして「高松城」の3つ。 歴史的に建築的に、専門的なことはにわかに理解できませんが、そもそも高松城は、天正16(1588)年に、豊臣家の家臣であった生駒親正によって築城が開始された城郭。慶長10(1605)年頃、生駒一正の時に創建完成。生駒家がお家騒動で出羽国矢島に転封されたのち、松平家が入封します。初代松平頼重、二代頼常は、城の増改築に着手する。 正保4(1647)年頃、松平頼重が修理。この間わずか40年、城の耐久性から40年はまだ新築の範疇。そして寛文10(1670)年、頼重が再建している。ここで三浦正幸(広島大学名誉教授)氏が推定するに、当時の関西四国方面は、材木が極端に不足していた。余談だが、徳川家康が江戸に拠点を移したのも、このことが大きく関係していたという人もいる。 (PHP文庫竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける(2013年10月)」と「日本史の謎は地形で解ける[文明・文化編](2014年2月)」と「日本史の謎は地形で解ける[環境・民族編](2014年7月)」)の3部作は実に興味深い。ここにかかれている。 これから三浦正幸氏は、この時代の築城は寺院などの古材の使い回しがあって、頼重再築までは、改築の連続で短期間の寿命になったのではないかという。松平頼重が築いた天守は、3重4階+地下1階の5層構造。最上階が、一つ下の階よりも張り出して作られる「唐作(他に例がないという意味)」であり、別の資料では「南蛮造り」とも書かれているが、いずれにしても非常に珍しい城らしい。 歴史的建造物である高松城の復元には、文化庁との攻防があるのですが、いまから30年前にコンクリート造の高松城計画があって、文化庁に申請を出したが不許可。当時から今日まで文化庁の基準は、図面が残っている城の再築だけを認めている。これだと、大東亜戦争で焼失した4城のみとなる。 ちなみに幕府の監視下にあった天守で、5重天守を造るには50万石以上の大名か中納言以上の地位をもつ者に限られたようで、4重天守もそれに次ぐくらいの制限があった。その中で高松城は、1階部分が5重の天守より大きく、それでいて3重では、普通バランスが悪くて城にならない。それなのにケンブリッジ大学図書館に収蔵されている高松城の写真は、実に美しい。 これからは文化庁の基準も変わり、設計図面がなくても発掘調査や、写真、学者の論文などを総合判断して許可を出すかも知れない。また木造とコンクリート造の違いだが、木造であれば1千年も改修で持つが、コンクリート造では、地震もあって、100年は無理だと三浦正幸(広島大学名誉教授)氏は語る。さらに氏は突っ込んで、10年以内、フシだらけの檜で造れば今言われている費用の20分の1、40億円もあれば外は出来るだろうと断言。 これを聞いて私は、次は「高松城天守の復元」に汗をかいてみることにしました。平成乙女の像も、支払のことは残っているが再建は終わった。四国新幹線と高松城天守、これからの楽しみが出来ました。40億円であれば、「クラウドファンディング」が良いでしょうね。ちょうど良い、サイズ規模であります。 |
2018,11,22, Thursday
毎年岡山と高松で、交互開催をしている姉妹クラブの合同例会。今年は後楽LCさんの担当で、高松栗林ライオンズクラブのメンバー16名が、アークホテル岡山まで足を伸ばしました。今日は、マリンライナー号で約60分、ワイワイガヤガヤの車内で、あっという間にJR岡山駅へ到着。17時台のマリンライナー号は、通勤通学客で満席です。
例会は18:40分から、岡山後楽ライオンズクラブL的場三樹男会長、高松栗林ライオンズクラブL松田展和会長の開会ゴングで幕を開け、幹事報告等簡素化した進行で、いよいよ楽しみにしていた「岡山カンタービレ支部」みなさんの合唱が始まります。岡山カンタービレ支部は、岡山後楽ライオンズクラブ内の支部組織です。 また歴史の古い岡山後楽ライオンズクラブ(1960年結成後58年)は、少年に自立と奉仕の精神を根づかせるために、ライオンズクラブがスポンサーとなり、地域社会への奉仕や国際的な相互理解の促進を方針とする「レオクラブ」と呼ばれる組織も持っています。将来の正会員予備群として、未成年者で構成する「子クラブ」的存在です。 岡山カンタービレ支部も3回目ですか、今年は男性会員も3人いました。男性は、初めてではないかと思います。合唱も、アメリカの歌や日本の童謡、良いものですね。女性メンバーの一人が結婚で支部を離れたようですが、また増えると良いですね。いずれにしても人が減るというのは、寂しいものです。 岡山後楽ライオンズクラブも、新旧会員の出入りがあるようで、会員が減りながらも2010-2011一井淳治ガバナー(キャビネット幹事・釜田理、同会計・清水直樹ともに岡山後楽LC所属)を出しています。恥ずかしながら、高松栗林ライオンズクラブからガバナーは出ていません。ガバナーをすると私財もいりますが、前3年間の拘束、退役後は終身名誉顧問で出席を求められます。死ぬ覚悟がないと、とても出来ません。 二次会まで招待頂き、申し訳ありません。マリンライナー号の時間もあって、早々に失礼することになりました。21時台のマリンライナー号も混んでいました。大きな荷物が多いのも、この時間帯の特徴です。岡山から途中の児島駅までJR西日本が、児島から高松まではJR四国の乗務員が運行にあたっています。 岡山から四国新幹線が繋がると、もう少し懇親を深められる(かみさんはええ加減にしまいと言う)のに残念だ。来年は、高松開催で、初めての二次会対策も必要です。たちまちは例会開始時間を早めるとか、新幹線が着くまでの工夫がいります。岡山後楽ライオンズクラブのみなさん、楽しみにしています。ありがとうございます。 |
2018,11,21, Wednesday
香川県土庄町(小豆島と同じ)豊島(てしま)で始まった産業廃棄物の有無を調べる2回目の追加調査で、県は19日、ドラム缶と見られる金属塊25個(計約9トンが5トンと訂正された)が見つかったと発表した。現場は、4~5月に実施した1回目の追加調査で掘削していなかった場所で発見された。
そもそも県は、公害調停期限の昨年3月末までに豊島産廃を完全撤去して、直島に新設した溶融炉で処分を完了していた。もう無いと考えて、溶融炉は既に解体している。それでも県は、追加調査で出てきた産廃を、県内の民間施設で処理し、最後は直島の三菱マテリアルへ運び、最終処分をする方針を発表したばかり。 島民は、「無いことが前提」の調査だと思っていただけに、ショックを隠せない。地下水の浄化に向けて今後どうすべきか考えていかなければならないと頭を抱えている。豊かなはずの島に、更なる苦痛をもたらす産業廃棄物。どうしてこんなことが起こったのかと、改めて考えてしまう。 40年前の1978年、ミミズ養殖による土壌改良剤化処分業としての香川県許可を得て事業が始まったものの、1980年から関西方面からの産廃業者が不法投棄を始めたものです。長く裁判で争った結果、民間業者の不法投棄を許可をした香川県が民間業者に替わり、搬出処理しているものです。もちろん廃棄業者は、廃業したりしていません。 1978年の許可となれば、その前から準備をしていたのだろうが、この年の12月には地元の大平正芳元総理が誕生し、翌1月には第2次石油ショックが勃発している。関西方面から搬入されたと言うが、己の商売のためなら人の生活苦などクソくらい、時間がたてばまさか自然に帰るとは思っていなかっただろうが、それにしても自然美、多島美を誇る瀬戸内海の島にひどいことをしたものだ。 今後も恐らく繰り返されるだろうと思われる、「豊島の産廃問題」。県はこの際島の空き地すべてを掘削するぐらいの覚悟で臨まないと、汚点を残したままになる。それにしても、業者責任は大きい。私も土地や家という、人々の営みの元を商いのネタとしている。目指すところは、親が付けてくれた名前に恥じない努力精進。 松野は、「松=木で家」を、「野=野原つまり土地」を扱うための家と私は勝手に考えている。そして誠寛は、誠実に寛大に仕事をする。誠実は想像に難くないと思われるが、「寛大」はこれも大きい。不動産取引にあっては、法律上は「買います売ります」で契約が成立し、契約書も手付金もいりません。しかし現場では、買うと言ったものの親の反対や住宅ローンがつかず、やむなく断ってくることがあるのです。 そんな苦い経験を多くした私は、「買います」という意思表示があっても、販売活動を止めないという方法に思い当たりました。2番客3番客だと断って、買客を探すのです。2番3番があると、1番客が飛んでもニコニコしていられます。もちろん正式に契約して、手付金が入れば、販売活動は終わり、ネット情報も落とします。 この方法を編み出して、これは勿論仲介業者もありがたいのだが、売主にとっても地獄に仏になる。「売れましたが、キャンセルになりました」は、ショックが大きい。ある意味「三方よし」の思いつきかなと、ニンマリしています。また寛大は、優しくなることでもあると思っています。 豊島関連の過去の小欄 |