SNSで『赤松食堂』が今月末で閉店と知りあと3日、夜は着物がよく似合う女性を同伴だが昼間はそうもいかず、かみさんに詫びを入れて急遽昼ご飯に出かた。最近塩江町の道の駅までは、干し柿を求めて何度か行きました。帰りに『谷岡食堂』へ立ち寄ることはありましたが、道の駅からまだ南、つまり徳島県方向にある『赤松食堂』は恥ずかしながら、初めてであります。
思いつきの出発ですから、辿り着いた駐車場にはすでに沢山のクルマが並んでいます。時間は丁度お昼時、食堂の中も超満員、働き手が老夫婦二人だからもう出来ないと閉店するのもうなずける。どんぶりの片付けも出来ていない。手伝おうかとやりかけると、常連さんが「向こうも置くところがない」と教えてくれる。かみさんはこうした片付けの出来ていないところが嫌で、帰ろう帰ろうとする。
座るところもままならず、見かねた別の常連さんが招き込んでくれる。注文も出来ないが、私は一期一会だからと腹を括って戦闘が収まるのを待つ。30分もすると嘘のようにお客さんが引いていくのだが、「長い間ありがとう」の一言をみんなが言って支払いを済ます。驚くことにPayPay(ペイペイ)支払いが、この店でも出来る。私もそうした履歴に、『手作りチャーシューの店赤松食堂』1,660円の記録が残る。
最後の方で、戦闘が収まりかけた頃、大将と話が出来た。先代(父親)からの商いで、70年以上続くという。現在の国道が出来ると言う話で、移転してきたという。国道193号線の東側に旧道があるのは、『辻食料店』へ何度か行って知っている。だが国道が出来る前の話となると、この地が『塩江温泉郷(香川郡塩江町)』として賑わっていた頃まで遡る。
以下にチャットGTPがまとめた、塩江温泉郷(旧・香川郡塩江町)の戦前〜戦後を中心とした歩みを、分かりやすく紹介します。塩江温泉は開湯伝説を持つ古湯で、奈良時代の行基の発見、空海(弘法大師)の修行伝承があるとされ、地域の湯治場として長く親しまれてきました。地名は「潮江(しおえ)」に由来し“塩気のある泉”という意が伝わります。
昭和初期に仏生山(高松近郊)〜塩江を結ぶ「塩江温泉鉄道」(ガソリンカー)が開通(昭和4年=1929年11月12日)。これにより高松市街からのアクセスが劇的に改善し、湯治客・行楽客が急増。旅館や娯楽施設が整い、少女歌劇なども催され「讃岐の宝塚」と呼ばれるなど賑わいを見せました。芸者さんが踊る写真も、残っています。古き良き湯治場で、たいそう賑わったそうです。
しかし、わが仏生山駅発の鉄道(ガソリンカー)は1941年5月10日に営業停止・廃止され、以後は交通の利便性が低下。さらに1930年代後半〜戦時下の物資・人手不足、戦争動員などが温泉地経営に影響し、繁栄期は次第に陰りを見せました。塩江温泉郷の戦前戦後をまとめて見ると、以下のようになっており、非常に残念です。今では昔の面影が、この赤松旅館(食堂)で皆無になります。
1.古くからの伝承を持つ湯治場としての長い歴史。
2.1929年のガソリンカー開業で一気に観光地化、娯楽(少女歌劇)などで最盛期。
3.1941年の鉄道廃止と戦時体制で衰退、戦後も完全な回復は難しく、施設喪失や宿数減少が続く。
4.近年は地域再生・観光活性化の計画が進められており、歴史・自然を活かした持続的活性化が課題。
こんな浮き沈みの中で赤松食堂は、赤松旅館も兼業しながら塩江温泉郷と共に今月末まで生き抜いてきました。婦人が熱中症にかかり、救急搬送されるに至り廃業を決断された。旅館業があるからか、夜の食堂営業もある。大変な重労働を、自らに強いてきた半世紀だと思います。私ら夫婦は、『中華そば』と『ちゃあどん』を注文し、半分ずつ頂きましたが、お世辞抜きで美味かった。久しぶりに田舎食堂を堪能しました。大満足です。ありがとうございます。