■カレンダー■
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31    
<<前月 2025年12月 次月>>
■お問い合わせは■
松野不動産電話番号:087-888-0011
■過去ログ■
社長日記過去ログ
■メニュー■
松野不動産ホームページ
■管理者■
ADMIN ID:
ADMIN PW:
■新着記事■
■カテゴリー■
■月別アーカイブ■
■リンク■
■その他■
■来訪数■
合計: 4458155
今日: 147
昨日: 3137

瀬戸内国際芸術祭2025秋会期終わるに大島を訪ねた
2010年から始め、3年に1度開催の現代アートの祭典『瀬戸内国際芸術祭』が6回目を迎えた今年、春会期が4月18日(金)にスタートし、夏会期、秋会期と順調に推移し、ついに本日11月9日(日)フィナーレを迎えた。私も地元開催の全国規模の芸術祭に多く参加したいと考えて、『オールシーズンパスポート』を購入し、10回ぐらいは出かけようと考えていましたが、大阪・関西万博にも邪魔されて、結局のところ今日で3回目です。

遠路東北地方からの信者が、四国霊場八十八カ所巡礼を熱心に今するように、香川岡山の11の島と二つの港を舞台にした現代アートの祭典『瀬戸内国際芸術祭2025』も県外・国外からの見学者が多い。最終日の今日、どこへ行くか考えて初めてとなる『大島』を選びました。『本島』も瀬戸芸では行ったことがありませんが、別の機会に訪島したことがあります。『大島』はほぼ毎週屋島から、全島風景を見下ろしていますが、上陸は人生初めてです。

高松港から無料の客船で30分程度。大島は、高松港の北東約8キロに浮かぶ面積が0.62平方㎞、周囲7.2㎞の小さな島です。屋島の北嶺からは、まさに眼下に見ることが出来ます。日本国内に13ある国立ハンセン病療養所の一つ、『大島青松園』を抱える島です。『らい菌』によって皮膚や目、末梢神経などが侵される『らい病=ハンセン病』は、古くは聖徳太子のころの文献から登場し、明治初期から感染が疑われ、本格隔離療法が確立され強制収容に。戦後になって、医学的治験が確立された難病。

このため患者は、療養所に強制入院させられ、療養所内でも職員や医療関係者から感染源として忌み嫌われて生きて来ました。私も高校卒業するまで、大島青松園の実態は知りませんでした。当時木田郡庵治町(有名な庵治石の産地)の漁港から、定期便が出ていると庵治出身者から聞いていた程度で、今日私が目にしたまでの差別が100年以上に渡り、終戦後もなお続いていたとは想像の範疇を超えて驚きました。とは言いながら、お祭りムードの瀬戸芸の中では、大島は異色だと私も感じていたし、それが証拠に今まで避けていました。

そもそも瀬戸芸構想で2006年、ベネッセホールディングス名誉顧問・福武總一郎氏と香川県知事・真鍋武紀氏からの依頼で、芸術祭の構想に参画した北川フラム(Fram Kitagawa)氏によって、今日大成功している瀬戸芸のテーマ・「海の復権」「じいさまばあさまの笑顔」、信念・「足はしっかりと大地に、目は遠く世界に!」という理念のもと、地域の人々とアーティストが共創する場を重視するという理念が決まります。

単なる小島を舞台とした一過性の活性化イベントに終わらない『大義名分』が確立されて、瀬戸芸には被差別の『大島』と公害の『豊島』の参加がどうしても必要だと言うことになり、構想の確立した2010年に初回が開催されました。北川フラム氏の思想とアート観のうち、地域との関係は「アートは地域の課題を可視化し、外部との接点をつくる装置である」と言う考えと、ハンセン病回復者の記憶にも記録にも残し風化させないで欲しいという願いから双方の承諾が得られたのではないか。

豊島は1980年来の高度経済成長のツケとして、『産業廃棄物(公害)の島』になってしまっていました。ここの復権の意味から、豊島には大規模な観光資源が投下され、『負の島』のイメージはすっかり腐食されました。同時進行の大島ですが、騒がれて参加した割には、瀬戸芸の作品もここまでの結果と反省は込められていますが、ではこれからどうするという豊島のような明確な方向性は感じられませんでした。

静かに時の経過と共に『普通』に復元すると言うのが北川フラム氏の考えかも分かりませんが、今ひとつ、次が見えません。とは言いながらこれまでの『過去』は、痛いほど分かりました。今日は頂いた資料から私が考えたことで、回復者(元患者)さんと話したわけではありません。「そっとして置いてくれ」と言っているのかもしれません。また全部の意見のベクトルが一致しているかどうかも、分かりません。

今を生きているわれわれが、大島青松園を風化させないと強く思うことは、折角至近なところで展開されているアンチテーゼですから、大いに心奥に仕舞い置き、元患者さんに詫びるべきはそうして、われわれ詫びる手段を持たない者は、2度と同じ誤りを犯さない判断が求められよう。特に印象深かったのは、『os01』から『os03「Nさんの人生・大島七十年」田島征三作』に書き留められた氏の訴えだ。

長島の園長だった光田健輔は、“救らいの父”として文化勲章授与者だが、多くが批判し、こんな文章も「氏は大島を浮浪患者ばかりだから悪い、とボロくそに言いよった」(入所して85年大島の生き字引を呼ばれた磯野常二さんの言葉)とこけにしている。このとどめが、先の田島征三氏の言葉だ。光田健輔(みつだ けんすけ)は、日本のハンセン病対策に生涯を捧げた医師であり、国立長島愛生園の初代園長として知られています。「救らいの父」と称され、1951年に文化勲章を受章しました。

光田健輔氏は、ハンセン病患者の医療体制整備と療養所の設立に尽力。また患者の生活改善と社会的支援を推進したとして、文化勲章(1951年)、ダミアン・ダットン賞、正三位、勲一等瑞宝章などを受章。一方で患者の強制隔離政策を推進し、「らい予防法」の制定に深く関与。断種手術の実施や、所内結婚に条件を課すなどの人権問題が指摘されている。また治療法が確立された後も、隔離政策を支持し続けたことへの批判もある。

光田は「ハンセン病患者を救う」ことに強い使命感を持ち、医学と行政の両面から対策を進めました。その一方で、当時の社会的偏見や医学的限界の中で、患者の自由や尊厳を制限する政策を正当化したことが、後世に議論を呼んでいます。
彼の存在は、日本のハンセン病政策の「光と影」を象徴する人物とされています。

秀でた人でなければ、文化勲章や勲一等瑞宝章は貰えない。叙勲の端くれとして、考えさせられる田島征三氏の言葉だ。あえて写真を貼っておきます。お読みになって。あなた様はどのようにお考えでしょうか。現代アートの祭典『瀬戸内国際芸術祭』に、もう一つの意義を感じた2025ファイナルでした。





| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=6892 |
| 社長日記 | 09:00 AM | comments (0) | trackback (0) |

PAGE TOP ↑