昨晩の前夜式(仏教徒の通夜式)で、キリスト教(プロテスタント派=プロテスタント派は、キリスト教の主要な宗派の一つで、16世紀の宗教改革をきっかけにカトリック教会から分離して誕生した)独特の式次第に接し、今日は幾分免疫が出来ました。本日は告別式ですが、告別式は仏教徒と同じ表現になるようです。何度かキリスト教のお別れ会に参列しましたが、賛美歌を歌うのは同じですが、やり方は微妙に違うようです。
昨晩の前夜祭で高松商先輩から、「紫雲会の弔電も欲しいね」と言われて焦りました。当然弔電の受け付けは終了していて、今の時代ですからインターネットを介してと探りましたが、出来そうには書いていますが「では具体的に?」となると、翌日の8時NTT電報係が営業を開始する時間に115に電話するのが一番と悟りました。その前に葬儀会館に電話もしましたが、話になりません。
見得以外の何ものでもありませんが、野球部OB会『高商倶楽部』と『野球後援会』と『同窓会紫雲会』の3団体からの弔電が揃って披露され、私は安堵しました。8時に受付をして、10時半の開式に間に合わせてくれていました。電話応対も大阪で一括受け付けているようですが、実に丁寧で的を射た説明でありがたかった。一人親方は、「やっといてくれ」とはなりません。
今日の悲しみの中でも、『故人の思い出』で和田憲明先輩の思い出話と、最後のハーモニカによる校歌独奏は、多くの参列者の涙を誘いました。和田憲明先輩の横の最前列に座る私も、涙をこらえながら校歌を歌っていました。粋な校歌演奏があるもので、高商生の多彩な才を改めて実感しました。「♪やがては士魂商才を矜らん斯界の中堅我ら・・・」、改めて素晴らしい校歌にむせびなく私でした。
ところで昨日の小欄で私は、岡田紀明元監督の在任期間を昭和42年-44年と書きましたが、ノリさんは昭和62年10月から平成2年7月まで、2度目の監督に就任されています。2度の都合5年間の監督生活で、今日の和田憲明先輩の思い出話しでも、そう語られていました。帰宅し、昨晩取り出した『高商百周年記念誌大流(平成12年11月28日印刷)』をもう少し丁寧に読んでみました。
最初の監督生活は昭和42年からで、当時ノリさんは27歳だったと語っています。職場に断りを入れて放課後の練習に参加し、恐れを知らないというか、すぐ甲子園へ行けると思っていながら実際は苦労するわけです。翌43年に、坂出中から大北敏博(元巨人軍)が入学してきます。私の自慢の同級生です。大北敏博は岡田紀明監督が監督時代に最も印象に残っている選手で、彼が1年生で入ってきた時に、2年生3年生の誰よりも走ることも投げることも打つことも優れていて、体も全然違っていたと記念座談会で話しています。
結果昭和45年の夏の甲子園ベスト4まで行くのですが、その時には久保政道監督に交代しています。今日の本題ですが、昭和62年からの再監督の際に、紫雲会副会長の木村構作さんがキャプテンとして頑張りました。今日の式にもその世代が大勢参列していました。平成元年(1989)第62回選抜高校野球大会で、高商野球部はベスト8に進出しています。
このように紆余曲折を経て現在の長尾健司監督に、高商野球部は引き継がれてきています。今年の全国高校野球選手権大会は、どうでしょうか。今春の選抜高校野球大会は初戦敗退、私もやきもきしましたが、先の百周年誌を見ると『負』の記載が続いているのです。春夏連続出場や複数年甲子園へ行くことは至難のわざ、選手は毎年卒業し入れ替わります。われわれ応援する側が、もっともっと頑張らないと。世界の王貞治先輩が遠路1回戦から、母校早実のため甲子園へ応援に来ていた。われわれ凡人は、束になって応援しないと、物故された先輩や選手に申し訳無い。
本棚から取り出した『続・高商野球史(平成20年11月16日)』で、当時の齋藤和良野球部後援会長が、元校長山崎弘先生(昭和56年~62年)の言葉として、「野球だけが高商ではない。しかし、野球なき高商は考えられないと思う。『されど野球』をのりこえた『やはり野球』を感ずる」と書き記しています。先人に感謝です。