28日に通夜、29日に葬儀告別式が公益社西館で執り行われました。数えてはいませんが供花は200本超、通夜も告別式も超満員の参列者でした。吉田道数さん(多くがよっさんと呼ぶ)の仕事や業界での地位も人を集めていますが、よっさんの人柄で参列した人も多かろう。私も久しぶりに猪子進さんや佐々木昭さん、古家秀登司さんとも話しが出来ました。
昭和51年に、香川初のタウン誌『ナイスタウン』が創刊しています。創刊者として四国新聞の訃報は記事でも告知欄でも大きく取り上げられ、NHKローカルニュースにも繰り返し報道されていました。記事では、帝國製薬社主・赤澤庄三氏の死亡より大きな紹介でした。帝國製薬も香川の企業ですが、米国シリコンバレーにも拠点があるほどです。
一昨日の小欄にも紹介したとおり、吉田道数さんが猪子進氏に「百間町にビルを建てるンやけど、何か面白いこと出来ないか」と聞いたことからすべてが始まったのです。百間町という昔のいろまちの一画に土地を買うというのも良く分からないのですが、そこに何か建てて何かをするというのも理解不能ですが、よっさんはそういう人でした。建設地の隣はヌード劇場でした。
猪子進さんはその頃、若くしてデザイナーとして名をはせていました。神戸でタウン誌が評判を得ている旨を伝えてたら、それがやがて『ナイスタウン』となったとか。よっさんは、判断力はピカイチでした。誤った判断もあったかも知れませんが、白黒はっきりした人でした。ここ一番男らしい人でした。
これに当時流行していたファッション誌『ノンノン』や『アンアン』のように、都会風で写真を多用した紙面にと言うことで写真家の古家秀登司氏が参画、印刷もカラー印刷の『アイニチ印刷』と舞台が整いましたが、資金繰りは苦労があったようです。猪子進氏曰く「10年くらいはずっと赤字で、常に2千万円ぐらいの借金があったと思う。初期は私(猪子)もよっさんも、無給で働いた」と今日奥様の前で懐かしそうに話していました。猪子さんは結婚前だから、出来たのかもしれません。
私も不動産創業前で、麺業の傍らの夜に行って記事を書いていました。新田さん夫婦や、編集の山田耕三さん映画の石田孝文さん、それに元気付け役で、佐々木昭さんがいました。よっさんは確か高松商で、ヨット部だったと聞いています。その関係で佐々木兄弟が、いろいろな場所にいました。佐々木昭さんはその後1980(昭和55)年、ヨットマンとして大海原へ出て行きます。その時の吉田道数さんの役割は、聞いたかもしれませんが何も覚えていません。
角川書店が古代の海洋国日本から小舟と海流に乗って、アメリカ大陸まで渡ったのではないかという仮説を立て、それの証明として『双胴船野生号』を建造し、太平洋横断に挑戦しました。プロジェクトは、角川春樹氏が主導し、当時角川書店から発刊されていた『野性時代』の宣伝でもありました。
一見ばからしいイベントを通じて角川春樹氏は文化的・商業的な注目を集め、「出版業界の枠を超えたプロデューサー」として世界の評価を確立しました。時代が日本の高度経済成長期、その時の野生号数人のクルーの一人が、佐々木昭さんです。出航前の宣伝イベントも、派手でした。失敗は許されない?
この航海のお付き合いを数ヶ月したのが、アマチュア無線をやっていた私です。よっさんが野生号にどのくらい出資したかは知りませんが、毎日の定時交信に日本国籍の大型船の船長らも、間に入ってくれて中継する電波状態の日もありました。私も少しだけ参加できていることが嬉しくて、佐々木昭さんの家族もわが家の狭い無線室へ来ていました。インターネットや衛星電話が登場する前の、昔話です。
思い出す私の青春の隅に、よっさんが不思議と見え隠れしています。加えて洋子夫人も、私の教育実習の際の生徒さんという奇遇。吉田道数さん75歳、衷心より哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申しあげます。