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荘内半島立石山と横峰山縦走遠征の屋島組
今日の屋島組は屋島から離れて、香川県西讃に位置する荘内半島にある標題の山々に登りました。山は数々あって、どこもそんなに変わることのない『おむすび山』ですが、そこから見える景色は、季節で違いまた同じ山でも高低で違っていて、二つとない光景を一望できます。特にこの荘内半島は、瀬戸内海の多島美を余すところなく堪能出来ます。

至るところに『夕陽』を絶賛する看板がありますが、それまではとても待ちきれません。午前中は大旨7~8度、午後からは2度ほど上昇しましたが寒い、昨日と打って変わって風が落ち着き、瀬戸の海も穏やかで体感も「ようそろー」ですが寒い。青森県大間沖では高波のため、『まぐろ一本釣り』の漁師さんが帰らぬ人になってしまいました。この波を分けて上げたいくらい、危険を承知で『初競りマグロ』を狙ったのでしょうか。ご冥福をお祈りします。

登山の前に、『MOZAIKストアー大浜』で弁当などの買い物をしました。『旧大浜小学校体育館跡地』に設けられた販売店ですが、オリジナル商品を旧校舎内で製造しています。印象的なのはチョコレート類で、グラム売りをしています。その他にも、地元業者提供商品を販売しています。何ともユニークな店で、価格は決して安くはありませんが、遠来の客には十分訴求するでしょう。

久しぶりに来た詫間町ですが、私の心に響いたのは先の『MOZAIKストアー大浜』が一番ですが、もう一つ『詫間電波高専』のキャンバス全域を上から見たのにも感動しました。正式名称は「香川高等専門学校詫間キャンパス」ですが、今ではロボコン大会で有名です。香川高等専門学校(略称:香川高専)は、香川県にある国立高等専門学校で、高専の高度化再編に伴い、2009年10月1日、高松工業高等専門学校と詫間電波工業高等専門学校が統合されて香川高等専門学校となった5年制の学校です。

私が高校受験を考えた今から60年前も、『詫間電波高専』は難関校でした。私は高松高専の試験に落ちたのですが、その頃は詫間電波がもう一つ難しい5年生高等学校と言われていました。龍雲中から一人、三渓小から来た森上浩年さんが合格し、寮生活をしていました。彼は卒業後JALに就職し、大学生の私に一度だけ電話がありましたが、会えぬまま今日まで時が流れています。

そんなに仲が良かったわけではありませんでしたが、私が働き始めてアマチュア無線を志したのは、この森上浩年さんの影響も大きかったと思います。高校入学の年の夏休み、彼は同窓会で『モールス信号』が打てるようになったと話していました。私が商業科でそろばんに遊ばれている頃彼は、電波高専で電鍵を叩けるようになっていました。電波は地球の果てまで届く、そう思うと世界観が地球規模に拓けています。

今では一等無線技士も大型船に不要になっていますが、海の世界では一等航海士(船長候補)と並んで、無線技士も花形でした。大恩ある葉佐昭紀さんも、一等無線技士でしたが、陸に上がって奥さんの実家のある高松で、損害保険の代理店業に携わっていました。葉佐さんは生前無線の話になると、「大酒飲んで寝ていてもSOS信号だけは聞こえてくる」と私に話してくれていました。

詫間高専のキャンバスを眺めていたら、いろいろなことが走馬燈のように浮かんでは消えて、改めて72歳、遠くまで来たものだと思いました。今日も屋島組は良い1日でした。300メートル弱の低山ですが、無事下山出来ました。ありがとうございます。感謝。









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| 社長日記 | 09:20 AM | comments (1) | trackback (0) |
松野さんこんにちは!毎日このブログを拝見するのが日課となっています。
今回は私の母校である高松高専を取り上げて頂き有難うございます。
振り返ってみれば高松に5年制の工業高専ができたのが昭和37年で、家業が鉄工所だったこともあり<渡りに船>とばかり右も左もわからないまま受験して幸い合格したので、これで大学受験勉強から逃れられるとばかり大喜び(親も授業料が安いことに大喜び)。しかし一年目は校舎もなく高松工芸高校の建築科の教室をお借りしてのスタートでした。教官方も大学や民間からきた人が多く、生徒の自主性を大事にしてくれたいへん有難く思ったものでした。当時は岡山、徳島、高知から高松高専に入学した友人が多く岡山弁、徳島弁が飛び交ったものでした。
友人の中には日本を代表するような会社のトップになった者もおり、日本の高度成長期を担ったと自負したものです。私のような家業を継いだものは未だ完全リタイアは出来ませんが、縁あって社員の中から事業承継してくれるものができ、やっと肩の荷を下ろしたところです。
| 南條久輝 | EMAIL | URL | 2024/12/24 05:18 PM | 48E70SW. |


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