八兵衛茶会の案内を貰った。私も会員らしい。西嶋八兵衛顕彰会があり、高松大学佃昌道学長が会長と書かれている。今月29日にはいよいよ『第60回明治大学全国校友香川県大会』が開催される。記念講演は、池田豊人香川県知事と高松大学佃昌道学長の二人が講師だ。今日の茶会と同時進行の、秋田県由利本庄市の『生駒顕彰会・佐藤健一郎会長』とも由利本荘市での話しで盛り上がる。
讃岐(現在の香川県)は藩政が奮わない上に、地震や干ばつなどの災害が相次いだため、伊勢の津藩主である藤堂高虎は、家臣の西嶋八兵衛を讃岐建て直しに遣わしました。高松は、いわゆる難波津や奈良、京都にも近く、瀬戸内海を使って西から攻めてくるのを監視する西日本の要所です。
1587年(天正15)生駒氏が入封、香東郡野原郷に城を構え、高松と命名。生駒氏は秀吉の朝鮮出兵にも参陣し戦功を上げた大名で、守りの重要性を意識しての拝領でした。そのころの高松は野原と呼ばれており、港町として栄えていたようです。
西嶋八兵衛之友(1596〜1680年)
遠州(現・静岡県)浜松で生まれる。名は之友。八兵衛は通称。17歳で伊勢の津藩主藤堂高虎に仕えた。水利、土木、経済、書道に優れた八兵衛は、高虎の命で1625年(寛永2)〜1639年(寛永16)の14年間讃岐に住んで、讃岐高松藩生駒家の領国経営に参画した。讃岐の実状を高虎に報告し、長期的視野に立った溜め池の改修や築造、香東川(こうとうがわ)の東流を締め切って、西流1本にする大規模な治水事業に取り組み、新田開発を実現した。讃岐を離れてからは、城和奉行や伊賀奉行を務めた。
今の香東川を作ったのが西嶋八兵衛之友で、香東川というのは、香川県中部を流れ、延長3万2989m、流域面積113・2km2の二級河川です。奥山にある樺川(かばがわ)という里に香り高い樺の古木があったために馥郁(ふくいく)とした香りの水が流れた、という伝説からこの名がついたといわれ、県名の由来にもなっています。
八兵衛は香東川の東流を締め切って、西流に1本化。東の旧流路付近に新田開発を行ないましたが、この工事は想像以上に大変で、締め切った下流地域では長期にわたって伏流水が湧き出たそうです。ちなみに、この地方では湧水のことを出水(ですい)と呼んでいます。
さて、香東川の締め切りを成功させた八兵衛は、安全を祈願して〈大禹謨〉と刻んだ石を鎮斎しました。時期は特定されていませんが、八兵衛が滞在した14年間の半ばではなかったかといわれ、場所は香川町善海辺りと考えられています。
紆余曲折があり、今ではこの西嶋八兵衛が揮毫した『大禹謨(だいうぼ)』の石碑が栗林公園商工奨励館の中庭にあります。今日はオイスカ高松推進協議会の馬場朋美(元市職)さんの計らいで、オイスカ研修生ら8人を茶会に招待したのですが、掬月亭でのお手前の菓子に『大禹謨』と刻があり、これを見た引率者の山崎職員に質問されました。
古希を迎えた私は、「どこかで見たぞ」とは直感しましたが思い出しませんでした。本当に恥ずかしい。流石石州流土居宗美亭主は、それを使っていました。一緒に、秋田県由利本庄市矢島町の龍源寺(生駒家の菩提寺)へも参拝しました。生駒さんも、西嶋八兵衛之友も今の香川県ではあまり知られていませんが、香川県は彼らや多くの先人らの労苦で今があるのです。
園内では高校生茶会も、大雨のなかですが開かれています。山崎指導員も「行きたい」というので、茶会のはしごです。先の掬月亭は広いので椅子も使えましたが、ここ日暮亭は本当の茶室の風情を今に残しており、とても椅子など言えませんでした。フィジーのトウイさんは骨折リハビリ中ですから隅で椅子ですが、私は次席に座る羽目になり、苦痛の時間でした。高商生は頑張っていました。先輩としては、鼻高です。明日は高商紫雲会総会、明日は晴れると良いのですが。
大禹謨発見のドラマ│40号 大禹の治水:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター (mizu.gr.jp)
参照しました。