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雲仙普賢岳大火砕流から33年
毎年のことですが3日朝、長崎県の雲仙普賢岳で43人が犠牲になった大火砕流から33年となった島原市の仁田団地第一公園で、古川隆三郎市長や遺族らが犠牲者を追悼し、献花を行ったと報じられています。当時消防団員だった古川隆三郎市長は、「災害の教訓をこれからの世代に伝え、災害に強い島原をつくっていくことが使命だ」と述べている。

大火砕流発生の午後4時8分には、防災無線のサイレンが鳴り響き島原では、鎮魂の一日となった。先のライオンズクラブ合同例会の席でも、地区名誉顧問松前龍宗元地区ガバナーから「松野さん島原の日がまた来ましたね」と、お声がけを頂いた。私が所属する高松栗林ライオンズクラブが、災害の年の暮れ、被害者の島原第四小学校生徒らを『高松冬のまつり』に招待したことを松前氏が覚えていて、声がけを頂いたモノだ。

言われるまでもなく、この日が近づくと一人この時を思いだしています。結婚記念日が近くて、二つの慶弔が同時にやって来、自然に思いだすのです。6月に大災害が発生し、落ち込んでいる島原の子らを12月の第五回高松冬のまつり開会式の舞台に上げることが、当時のクラブ幹事だった私に課せられた使命でした。「来年ではダメだ」と脅され、何がなんでもこの6ヶ月で結果を出さなければ、『退会届』も頭をよぎりました。

四国キャビネットを通じて、島原唯一の島原ライオンズクラブを交涉相手に的を絞り、押しかけて行きました。「生きて帰るな」の冗談も飛び交いましたが、あの頃の自分はガラにもなく悲痛な思いでありました。こちらのライオンズクラブ関係者も巻き込み、勿論島原ライオンズクラブメンバー各位に多大な苦労をお掛けして、子ども達十数人と島原LC吉田錬治会長らが開会式の舞台開幕に間にあいました。

これをご縁に島原ライオンズクラブとの関係は今も続いておりますが、当時の藤井四郎幹事の消息がその後不明です。今一度礼を言いたい思いと、当時の思い出話がしたいと6月3日が来るたびに思いだします。夜間燃えさかる普賢岳の中腹までジープを走らせ、現場をつぶさに見せてくれた大恩人の一人でありました。車載無線機からは自衛隊、消防、島原市の3周波数の声が、その時間も飛び交っていました。これが私には、安心材料でした。

島原ライオンズクラブメンバーとの関係は、その後の1994(平成6)年の高松の『ヘイロク渇水』で命の水を運ぶ散水車へつながります。6月に水の湧き出る島原から、第2次高松砂漠で断水の続く高松へ命の水自体は衛生管理上無理でしたが、メンバー吉田さんの教習所で使っている散水車を松尾錦二さんと二人でわざわざ高松まで運んできて下さいました。秋までこれで、大量の命の水が運べました。長男賢士と二人して、島原へ散水車を返しに行きました。楽しい二人旅でした。

大勢の死者を出した惨事でしたが、私には心の温まる数ヶ月でしたし、33年続く人の絆を感じるメモリアルデーです。被災者の皆さまの、ご冥福をお祈り申し上げております。


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| 社長日記 | 08:41 AM | comments (0) | trackback (0) |

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