楽しみにしていた三菱重工業の旧MJS計画、つまり三菱が飛ばす国産ジェット旅客機が、零式戦闘機を創り上げた『三菱重工』から世界へ飛び立つ計画、それを三菱重工が断念したと報じられている。実に残念なことであります。これまでの開発には15年の歳月をかけ、1兆円規模の資金を投じながら、ついに事業化には至らなかった。
この計画には、国も約500億円もの支援をしていた国家プロジェクト。私など試作機が日本の空を飛んでいる写真を目の当たりにし、次はアメリカで『型式証明』が出れば、量産化が出来るとばかり信じていました。一生懸命時間と資金を出せば、たとえ10年かかったとしてもモノになっていたのがこれまででした。
三菱重工の失敗は、コロナ禍でいろいろなモノが変わった象徴のように思います。コロナ禍が原因ではなく、単なるきっかけに過ぎないが。原因はいろいろ言われていますが、そもそも見通しが甘かったと言わざるを得ない。2008年に事業化を決定したのだが、わずか1年余りで主翼や胴体といった基幹部分の大幅な設計変更を余儀なくされた。
その後も主翼の強度不足など欠陥が露呈し、13年に予定していた初号機の納入を6度も延期する事態となった。当初は1500億円と見積もっていた開発費が膨れあがるだけでなく、開発が遅れる間に肝心の性能面でも海外企業に追い抜かれてしまった。1973(昭和48)年に生産が終了した『YS-11』以来の作業であり、ノウハウが欠落していたと言わざるを得ない。
技能が途絶えていた影響は、予想以上に大きかった。海外から招いた認証取得の専門家を開発全体の責任者に据えた頃から、現場が混乱して事業化に暗雲が漂い始めた。経営陣と現場の関係も、ギクシャクした感が否めない。全てが、マイナスに作用した結果と言わざるを得ない。
一方『HONDA』のジェット機は、空を飛んでいる。ホンダが後発機だったと記憶している。偶然だが、ホンダの『藤沢武夫』氏が、自動車業界に貢献した人物を讃える米国の自動車殿堂に入ると報じられている。藤沢氏は、本田技研工業の創業者『本田宗一郎』の右腕として知られる。ホンダと三菱は、何が違っていたのか。少しの違いが、大違い。
『新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に』、成功の鍵はどんなことがあろうとも決して挫けない心にかかっている。だからこそ、高邁で強烈な思いをひたすら抱き続けなければならない。
稲盛和夫塾長によれば、新しい計画の初段階では『おっちょこちょい』にやろうと言わせ、第2段階では『知恵者』にあらゆる問題点を抽出させ、それを徹底的に解決させてモノを作り、最終的に販売に及んでは、『ポジティブ』な人間に役割を任すと言うような分担を我々に教えてくれた。「もうダメだと思った時が、始まりだ」とも言った。私のようなバカな塾生も、信じて励んでいます。
これまでは艱難辛苦、臥薪嘗胆で物事に挑戦していれば、一筋の光明がさして、それがヒントとなりモノが完成し、結果オーライとなっていたモノが、そうはならないような流れが出来はじめているようだ。コロナ禍が原因ではありませんが、時代の分岐点のように思います。