新型コロナウィルス禍のため、東京をはじめ全国各地への出張も全くなくなりおとなしくしていた私ですが、小用をきっかけに2年ぶりくらいに上京しました。高松空港の施設はさほど変わってなかったのですが、JAL機への乗降はかなり変わっていました。それでも8割方の搭乗者で、このまま年末年始が推移したら、どうにか黒字回復前の数字を叩き出すのではないですか。
本日はかねてから希望していた『伊能忠敬記念館(いのうただたか)』(千葉県香取市佐原)へ、関東圏にあるとは言っても遠い遠い。東京駅からJR総務線快速で千葉まで、そこから成田でJR成田線に乗り換えてJR佐原まで、久しぶりの首都圏公共交通で乗換不安がいっぱい。その不安を少しでも解消するために、前日『Suica』にチャージしました。運悪くカードを廃して、スマートフォンに入れています。
詳細は割愛しますが、これがとんでもなく大変でした。しかしこれがないと、田舎者は首都圏の電車には乗れません。この難題を解決して、12時過ぎにJR佐原駅に降り立ちました。所要時間2時間余、料金は1,694円と僅かですが、切符を買っていたらとんでもなく頭が混乱します。記念館はここから徒歩10分程度、高齢者割引で入館料450円。
映像解説のブースは、コロナ禍で使用中止。平日ですから、入場制限はありませんでした。館内はシンプルで、案内書によれば記念館で90分、伊能忠敬旧宅は20分で見学できるとあります。みなさんはこだわりもなく、1時間もすれば帰って行きます。ある意味では『平凡館』、その価値を高める訴求力が足りないかと感じました。残念ながら、楽しみ感がありません。
伊能忠敬は、1745年(276年前)千葉県九十九里浜町の名主・小関家に生まれる。幼名は三治郎、7歳で母ミネ死去、父親が婿養子だったため実家の神保家へ父親と2人の兄姉が帰り、1人辛い幼少期を過ごす。11歳で父の実家、神保家に引き取られる。そして18歳、佐原村で一二を争う伊能家の娘ナミ(4歳年上子持ち)と結婚。名を伊能三郎右衛門忠敬と改める。
「お江戸見たけりゃ佐原へござれ 佐原本町江戸まさり」
佐原は、江戸と関東農村を結ぶ利根川水系の河岸(かし)であり、商業都市として繁栄していました。伊能家は家業として酒造(金融・運送・米問屋)等を営んでいて、1794年49歳で隠居をしますが、家財を3倍にしたと言われています。39歳で妻ミチが死去するのですが、再婚して次男秀蔵を授かっています。長じて彼が、忠敬の測量に同行します。
伊能忠敬(いのうただたか)が、日本初の全国地図を作成したことはよく知られているところで、ここでは省略します。記念館所蔵の『伊能忠敬関係資料』2345点は、平成22年6月29日国宝に指定されました。展示を見ていて一番の興味は、忠敬47歳の時家訓を書き家業を長男景敬(かげたか)にまかせ、50歳で隠居(村方後見で人望がありすぎて許しが出なかった)が認められ、51歳で江戸へ出て高橋至時(よしとき・19歳年下)の弟子となり、本格的に測量術を学びます。
家訓書
第一 假(かり)にも偽(いつわり)をせ須(ず) 孝弟忠信にし天(て)正直たるべし
嘘をつかず、正直に生きなさい
第二 身の上の人ハ勿論 身下の人に天(て)も 教訓異見あらハ(ば)急度(きっと)相用(あいもらい)堅く守るへ(べ)し
身分や年の上下にかかわらず、よい意見は聞き入れて実行しなさい
第三 篤敬謙譲と天(て) 言語進退を寛裕ニ諸事謙(へりくだ)り敬(つつし)ミ 少(いささか)も人と争論など成すべから須(ず)
人には尊敬・謙譲の心で接し、言い争いなどしてはいけない
やはり成功するところには、ハッキリとした家訓(理念)があるモノですね。これを知ったことがこのたびの一番収穫でした。