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長崎9日原爆の日76年の歳月が流れる
長崎は9日、米軍による原爆投下から76年を迎えた。爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、『平和祈念式典』が営まれ、原爆が炸裂した午前11時2分に黙祷が行われた。台風9号が、中国大陸上陸直前になぜか進路を北に取り、日本本土に上陸した。自然界も科学の力で解明しないと、訳の分からない現象をもたらしている。式典準備も大変だと、関係各位の苦労に深く脱帽します。

8日平和公園の『平和の泉』では、小中高生3人が祈念式典で原爆犠牲者に捧げる水をくみ、市立長崎商業高2年の被爆三世山崎さくらさん(16)は、「水を求めて亡くなった方々に少しでも届けられれば」と話した。原爆落下中心碑では午後、台風接近に伴うたたきつけるような雨の中、駐日大使ら各国の代表が献花した。

浅学非才な私の勉強の中で、6日の広島中心市内への原爆投下は、日本海軍呉工廠(呉市)を狙ったモノが、また9日の長崎市内中心部への投下は、海軍佐世保工廠(佐世保市)を本来攻撃目標としていたのが、天候不良でそれぞれが変更されたと聞いています。小倉の工業地帯が攻撃目標だったとも聞いたことがあります。いずれにしても米軍は、軍需工場の周辺には多くの市民が生活していることが分かっていて、『大統領命令』の大号令のもと、非人道的な原子爆弾を投下した。

私はこの2発の米軍が投下した『原爆』に対しては、日本国政府が毅然とした態度でアメリカへ、世界へ『NO』を怒りを込めて強く発信すべきだと思っています。そもそも市街地への機銃攻撃など、あってはならない愚行だと考えますが、アメリカ人の『自由・平等』追求思想は、他人の犠牲など全く頓着しないようです。

過去は過去として、その時代に戻ることは出来ませんが、今の日本国を代表する政府首脳や政治家・官僚のみなさん、原爆投下については、毅然とした態度でのぞむことが、犠牲になられた御霊に対する尊厳だと考えます。その他のところでは協調しても、原爆投下だけは決して許してはならない。あくまでも『許さない』を日本国の総意としなければ、6日広島も9日長崎で犠牲になった方々、ましてこれから生きていく遺族の苦労は報われない。

諸兄は、日本海軍『伊四百型潜水艦』をご存じだろうか。1945年(昭和20年)1月8日佐世保海軍工廠で竣工したが、既に日本の敗戦は色濃くなりつつあった。それでも終戦直前の7月20日、アメリカ海軍機動部隊の泊地であるウルシー環礁を攻撃すべく舞鶴を出港、23日に大湊を出撃した。攻撃開始の直前に終戦となり、降伏の命令を現地で受ける。艦内では自沈か攻撃かで激論となったが、結局は艦長の判断で帰還と決し、艦載機を機密保持のため海上にて処分し、帰還途上の8月29日にアメリカ海軍により海上で接収された。

艦載機にはアメリカ空軍のペイント彩色が施され、潜水艦はワシントンの近くまで深く潜入する計画と聞きました。潜水艦から艦載機が出てきて、アメリカワシントンの中枢部を上空から攻撃する計画が進んでいたのか。この計画をアメリカは、終戦後まで知らなかったと言うのだ。艦載機の1機は、スミソニアン博物館に展示してあります。私も見ました。

戦争は非情なモノです。日本でも、原爆製造計画はあったと聞いています。陸軍の計画に対して天皇陛下がNOを突きつけたが、その後海軍が秘密裏に計画を進めていたと聞いています。実験結果がないモノで、製造完成かどうは分かりませんが、先の艦載機に原爆を搭載し、投下していたら、広島長崎以上の被害者がワシントンで出ていたかもしれない。いずれにしても日本は、原爆投下をしなかった。結果できなかったのかも知れないが、それで良かったのではないですか。




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| 社長日記 | 09:10 AM | comments (0) | trackback (0) |

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