2021,06,01, Tuesday
なぜかしら「邪馬台国」というモノに、激しく反応してしまう私です。令和2年7月20日第1刷、展転社から発行された貴重な1冊であります。タイトルに「最終結論」と書かれていて、長浜浩明氏は自信を持っている。その長浜浩明氏だが、昭和22年群馬県太田市生まれ、何と一級建築士であります。考古学者・歴史学者が、「邪馬台国」は九州説・畿内説、最近は沖縄説で喧喧諤諤のなか、理系の天才が喝破している。
過去の小欄に書いたとおり、私は「邪馬台国は沖縄だった!」by木村政昭氏の考えを支持しています。この本はある研究者に紹介されて読んだのですが、『魏志倭人伝』を素直に読めば卑弥呼は沖縄にいた!ことになります。海洋地質学者による、本格的邪馬台国論。那覇市の北、今では海底に沈んでいますが、そこに王宮らしきモノが撮影されています。 紀元3世紀に陸にあって、今日海に沈んでいるのはなんとなく理解が出来る。「邪馬台国は沖縄だった!」は、下にURLを張っておきますから、お時間の許す方は、クリツクして下さい。今年1月21日のネタであります。これを読んで、邪馬台国は沖縄と信じていました。ところが 『「邪馬台国」はここにある』が昨年7月に上梓されていたのです。それを私は今頃読んで、ドキドキしているところであります。 ここをクリック 長浜浩明氏の考えでは、邪馬台国は福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)あたりにあったと結論づけている。八女(やめ)茶で有名なところですが、実は私の叔母が瀬高町で『吉岡医院』の女医をしています。流石に90歳を超えて現役は退いていますが、そんなご縁のあるところに、邪馬台国や卑弥呼の墓らしき『権現塚古墳』があるようです。未調査のため、詳細は不明です。 九州新幹線の工事中に、いくつかの古墳調査が行われて、邪馬台国がこの地であると断定する資料も数多く出土したようだ。邪馬台国と南にいる『狗奴国(くなこく)』は、筑肥山地を挟んで対立しながら、両国は共存共栄の関係を守ったようです。邪馬台国は女王卑弥呼が死んで、その後国内が乱れたようです。 先の邪馬台国は沖縄だったby木村政昭は、『魏志倭人伝』を素直に読めば、沖縄のこの地にたどり着くとしています。1940年生まれですから81歳、潜水調査船「しんかい2000」などによる沖縄トラフ研究の第一人者で、深海宮殿の写真を掲載しています。これが本目だと、昨日まで思っていました。 しかし今日、最終結論「邪馬台国」はここにあるby長浜浩明を読んで、心が揺れています。一層邪馬台国が2つあったら、平和に解決するのにと思わんばかりの心境であります。長浜浩明氏の考えの一番ユニークなところは、魏志倭人伝の記述と、実際の距離を測定し魏志倭人伝にある一里とは約70mと判断しています。ここが肝の一つのように思います。 私がなるほどと合点するのは、畿内説に特に多いのですが、記載内容に「書き誤り」であるとして勝手に方向を変えたり、距離を適当に判断したりしているのがこれまでの大学者の定説であります。それはいくら何でもおかしいと思っていたところに、そのまま読めば沖縄に辿り着き、その海底に大宮殿があると言うのは、これだと思いました。 もう一つ最終結論「邪馬台国」はここにあるby長浜浩明は、月日にも言及され、当然太陰暦だが『春秋年』とみている。即ち、実年齢はその半分となる。なぜならば、裴松之は「魏志倭人伝」に「注」を入れたからだ。このように、丁寧に分析の結果瀬高町と言うのにも何だか根拠がありそうな気もしてきた。保健師からの指導で飲酒制限の中、眠れぬ夜が暫く続きそうだ。 |
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