数日前に、加ト吉の後継企業『テーブルマーク(東京)』の話題を小欄に書いたところでした。そこには遠慮して敢えて触れませんでしたが、加ト吉と言えば創業者加藤義和(かとう・よしかず)氏です。今月5日午後、観音寺市内の自宅で死去されたそうです。一世を風靡した、私にとっては郷土の星の一人でありました。ここだけの話ですが、加藤義和氏と中山芳彦氏が私の中では、なぜか対比してみていたのです。
加藤義和氏は1936(昭和11)年、観音寺市生まれ。中学卒業後、家業の水産加工業を継ぎ(失礼ながら私と同じ母子家庭だった?)、20歳で加ト吉の前身の『加ト吉水産』を創業した。1962(昭和37)年日本の高度経済期に合わせたように、冷凍食品の製造販売を開始し、冷凍エビフライが大ヒット。事業拡大の礎を築き、一代で冷凍食品の国内トップメーカーに成長した。
また加藤義和氏の経営者として異質なところは、1967(昭和42)年に観音寺市議となり、75年の同市長選に39歳で出馬して当選。4期16年にわたって、地元観音寺市の首長職を務めた。市長就任に伴い、加ト吉では代表権を持つ会長職に就いていたが、退任後の96年に社長に復帰した。県内では『今太閤』と言われ、講演会にも積極的に出ていたのですが、選挙では苦労したと聞いています。経営と市長という相容れない立場の矛盾が、得票数に微妙に表れたのでしょうか。
市場のニーズを先取りし、優れた経営手腕で、2006年3月期には連結売上高3398億円まで伸ばした。県内ではダントツの売上高を誇り、観音寺商工会議所会頭などを歴任された。しかし07年に社内で、循環取引が発覚し、経営責任をとって社長を辞任された。その後は数日前の小欄に書いたとおり、『JT日本たばこ』から『テーブルマーク(東京)』へと加ト吉は変貌した。
加藤義和氏は、10代の頃毎朝3時に起床し、当時はインバウンドはなかったものの大勢の参拝客で賑わっていた『琴平町』まで、かまぼこの行商をして加ト吉の礎を築いたというのは有名な話であります。この報道を見て、書庫で『加藤義和ものがたり』を探しましたが、残念ながら発見には至らず。このあたりの下りも、その本の中には確か記載されていました。
高度成長期以降の時流に乗って、食卓のニーズの変化を捉えた斬新な発想で、冷凍エビフライ、冷凍讃岐うどん、ピラフや常温の無菌米飯など次々にヒット商品を世に送り出した。また事業の多角化や企業の合併・買収(M&A)にも積極的で、ホテルやレジャー施設を手がけるなど観光振興にも寄与した。大企業になっても本社を観音寺に置き続け、関連企業や協力会社が県内で発展。雇用などの面でも、地域に貢献された。
もう20年になると思うのですが、香川宅建協会の役員会が琴平町内の加ト吉ホテル(紅梅亭)で開催され、故植本義明会長の尽力で加藤義和氏のプチ講演がありました。20名程度の少人数ですから本音のところも包み隠さず、経営とはこうするのだという『教授』を頂きました。確かに時事に通じた、政治経済学でありましたが異常に数字の羅列が多いのに驚きました。
経営は『数字』でするモノですから、決して間違っているとは思わず感心して聞き入っていましたが、経営者としてのもう一つの重要な側面である、『人のこころ』の部分が欠落しているのではないかと感じました。寝言のようなことを言っていては3,000億円企業の維持拡大は出来なかったと思いますが、いずれにしても加ト吉は身売りをする結果に陥りました。
晩年について、長男清司さん(51)は「昔の姿からは想像もつかないでしょうが、孫やひ孫と遊ぶのを楽しみにしていた普通のおじいちゃん。ご苦労様と言いたい」と話したそうだ。郷土の星の一人がまた一人逝った。残念ではあるが、昭和が終わったと実感する。先に書いたように、もう一人の郷土の星の一人中山芳彦社長は、元気でまだ現役です。新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、少しの苦戦はされているようですが、ご活躍を楽しみにしています。