竜雲舜虹苑(しゅんこうえん)の、広報誌『にじ』No.304が届きました。巻頭は、高知県四万十市の正福寺・月城嘉辰氏の「まあまあ、あつかんで。」その一部を紹介します。さぬきの国の方言で、「まあまあ、あつかんで。」聞いたことはありませんか?故桂米朝氏の落語の中に出てきます。この記事にも書かれていますが、古希近くの私も聞いたことがありません。
香川県のとある民家。遠方からの来客をもてなしていたが、客は「そろそろおいとまを。」家の者が「まあまあ、あつかんで。」客は、帰るつもりだったが熱燗が出てくるなら、と留まります。しかし、お酒どころかお猪口も出てこない。しばらくして再び「おいとまを。」「まあまあ、あつかんで。」待てど暮らせど熱燗は出てきません。帰るという客に対して「どうもどうも、これといった扱いもしませんで。」それが「あつかんで。」とても興味深い落語でした。
これを拝読して、インターネットで「さぬきの方便」「まあまあ、あつかんで。」を探しても、予想通りありません。それではと、『桂米朝』で検索してみました。するとブログが出てきました。随分前のモノですが、時事ネタではないので少し拝借させて頂きます。
米朝師匠が、この「京の茶漬け、高松の熱燗(あつかん)」という言葉を聞いた後に、この言葉について、いろいろな人に聞いてみるのですが、
誰も「高松の熱燗(あつかん)」という言葉を知っている人はいなかったそうです。
この言葉は・・・、他人の家を訪問して、いざ帰ろうとすると、家の主人が、「まあまあ、熱燗で!!」と言って来る。ところが、座敷に戻って座って待っていても、いつまで経っても、熱燗は出て来ない・・・。
実は・・・、「熱燗で!」と言っているのではなく、「あつかわんで!」・・・つまり、何も御構い(おかまい)はできないが、ゆっくりしていってくれ・・・という意味らしい。
私も、この言葉について、高松出身の人達に聞いてみたことがあるが、
確かに、誰も知っている人がいなかった・・・。さて、この「高松の熱燗(あつかん)」という話の後に、ようやく、「京の茶漬け」の話へと入って行く・・・。
皆さんは、この「京の茶漬け」の話を知っているだろうか?私は、学生時代に、京都で下宿していた頃、この話を聞かされました・・・。京都人の家を訪問し、帰り際に、「まあまあ、もうお帰りで?ちょっと、お茶漬けでも・・・。」と言われても、けっして、そのお茶漬けを食べて帰ってはならない。
もし食べたら、その家では、子子孫孫まで、「あの○○さんと言う人は、あつかましくも、お茶漬けを食べて帰った」と語り継がれてしまう・・・。
さて、このCDには、前回の記事にも書きました通り、解説書と落語の「歌詞カード」?的なモノが入っています。ここで、米朝師匠も書かれておられます。「この落語、小品ながら、なかなか難しい話です。仕草もいろいろありますし、間の取り方が微妙・・・」短い話にオリジナルのネタでボリュームを付け、さらには、現代の日本人にもわかる様に解説まで織り込む・・・。
さらに、解説書を見ればわかるのですが、作品の出典までキチンと調べられている・・・。調べたうえで、作品をオリジナルに再構成しているのである。このようにして、米朝師匠は、後継者がいなくなり、落語の作品自体が消えようとしていた「上方落語」を、見事に復興させたのです・・・。これは、スゴい功績です・・・!! まさに人間国宝にふさわしい。
KUROJOSU 瀬戸内海リム倶楽部