四国電力元会長、四国経済連合会の会長、そして公益財団法人オイスカ四国支部の初代支部長と、輝かしい人生を生きてこられた佐藤忠義様が、5日午前0時50分老衰のため京都市内の親戚宅で死去されたと報道されています。80歳にして杖もつかず、かくしゃくと登壇される姿に、「自分も将来こうありたい」と願った御仁であります。
最初のきっかけは、1983年頃第一生命高松ビルで行われていた『佐藤さんを囲む勉強会』でした。若い経営者を集め、90分程度のレクチャーを毎月して下さっていました。その頃は高松栗林ライオンズクラブの事務所も例会場もこのビルで、当時第一ビルの管理運営をされていた西野泰司氏が音頭取り役でした。ランダムに集められた生徒の中には、今ではよく知られた経営者もいらっしゃいます。
そして佐藤忠義顧問が93年公益財団法人オイスカ四国支部を発足され、初代会長として活躍されました。もちろん私がオイスカに入会する遙か前であります。「余生はオイスカにささげます」と話すほど、国際協力活動に情熱を傾けられた。95年からはじまったインドネシア植林活動には毎年足を運び、汗を流し、現地の子どもらとの交流をされたと聞いています。
ご自身がインドネシアで終戦を迎えたという縁もあって、東南アジア、とりわけインドネシアには熱心でした。晩年オイスカ四国のつどいなどでお目にかかると、『頑張りなさい』と一声ありました。101歳の昨年も、二代目支部長の坂出商工会議所の石井淑雄会頭の運転で、オイスカイベントに駆けつけて下さっていました。
杖を持たないのは、日頃アスレチックジムでの鍛錬がありました。高松でもジムがまだない頃、「アナブキ」のジムに熱心に通われていました。『郷ひろみ』が来ていたと、聞いたことがあります。85年に藍綬褒章、94年には勲一等瑞宝賞を受賞されています。失礼極まりない私は、佐藤忠義顧問にお聞きしました。「勲一等は最高位、電力でも東京とか関西電力のような大きいところに授与されるのでありませんか」。「大きな所は、事故や事件が多いのです」。そうではなく、人となりが受賞の理由だったと思いました。
佐藤忠義顧問とのエピソードは多くありますが、極めつけはコメンテーター竹村健一氏を囲む「香川竹村会」主催で、中国深圳などをご一緒したことです。確か1995(平成7)年の2月だったと思います。今の中国は、この頃はみじんも感じるところなく、深圳も開発がはじまったばかりで、まだまだ田舎でした。佐藤忠義顧問の声かけか、三菱商事とか日本からのそうそうたる出先機関の代表がホテルへ集まり、かなり突っ込んだ会話をしていました。今なら即逮捕です。
先の『佐藤さんを囲む勉強会』でも、中国の話は良く出てきました。諸外国と日本の関係は、よく勉強されているなと感心しきり。「香川竹村会」は会費徴収がありましたが、『佐藤さんを囲む勉強会』は無償で開催されていました。長身で、背筋がぴんと伸びた立ち姿が印象的でした。ゴルフをしない私でも、スコアーが年齢を下回る「エージシュート」を何度も達成されたと聞いて、「さもありなむ」と思っていました。
大変な読書家で、『会長日記』もさりげなくお届けしました。後日お別れの会が開催されるようです。尽きることのない思い出が、大勢から語られることでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。