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高松藩家老木村黙老と平賀源内と解体新書
今年4月10日(金)の四国新聞に、『ディープKAGAWA2020ミュージアム編』と題した記事が掲載されていた。県立ミュージアム専門学芸員・上野進氏の投稿かと思われます。なぜか気になり、切り抜いていました。江戸時代後期の、高松藩家老であった木村黙老(もくろう1774~1856年)。幅広い活動で知られるが、その作品の中でも、誰もが知っているのは「平賀源内肖像」だろう。キセルを銜えている、あの肖像だ。

黙老は、生きた時代が違うから源内を知らない。源内をよく知る老人から、聞き取りをして描いたという。また黙老は主著「聞くままの記」で、源内が高松藩を辞職した事情や、源内晩年の殺傷事件も伝えている。実はわれわれがイメージする源内像は、黙老の情報に頼るところが少なくない。源内肖像は平賀源内全集に収録されて、高松松平家歴史資料館にあるようです。有名な、あの絵であります。

ところで高松松平家には、江戸時代の動植物の図譜(図鑑)が伝来する。魚介図譜「衆鱗図(しゅうりんず)」と、鳥類図譜「衆禽画譜(しゅうきんがふ)」、植物図譜「衆芳画譜(しゅうほうがふ)」。「写生画帖(がじょう)」は、いずれも18世紀中頃に高松藩5代藩主松平頼恭(よりたか)が作らせたモノで、豊富な内容と精緻な図から、江戸時代を代表する植物図譜として評価され、香川県有形文化財に指定されている。

ここからは私の壮大な想像に過ぎないのですが、中学生でも知っている『解体新書』(かいたいしんしょ、旧字体表記:解體新書)は、日本語で書かれた人体解剖学書でありますが、著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。江戸時代中期にあたる安永3年(1774年・後桜町天皇・10代家治)、江戸・日本橋の板元・須原屋市兵衛の下で刊行された。本文4巻、付図1巻。内容は、漢文で書かれている。

何とこの有名な「解体新書」に、私は平賀源内が、おおいに関与して完成したのではないかと考えています。平賀源内は、1774年(安永3年)正月に杉田玄白宅を訪問、『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家を捜していることを知らされた際、全く無名の秋田藩角館の藩士で画家の『小田野直武』を紹介したのです。これまで歴史の本では、前野良沢と杉田玄白がビッグネームとして紹介されている。

しかし解体新書の魅力は、何と言っても細部まで緻密に書き込まれた「人体図」であります。小田野直武は平賀源内の紹介で、『解体新書』の図版の原画を描くことになった。『解体新書』の開版まで半年という短期間に、江戸での最初の仕事で、しかも日本学術史上記録的な仕事を成し遂げたのであります。

江戸に居住していた平賀源内が秋田藩角館を訪れ、ほんの半年程度であったのですが滞在し、その際に高松藩松平家の植物図譜の写しを持参していて、秋田藩角館の藩士であり画家の小田野直武に、人体描画法の見本として伝授したのではないか。こう考えれば、あの衝撃的な解体新書の実にリアルな描写も納得がいく。

秋田県仙北市角館町表町の旧家(青柳家)の蔵にも、その写しが今でも残されている。精緻な描画は、高松藩松平家の一子相伝の技がなせるモノであったと私は思う。余談になるが、高松松平家の前の殿様は、「生駒家」で、高松からこの秋田の地まで『お家騒動』が原因で流された。その際、女子を20人くらい連れて入譜したと言う。秋田美人のルーツは、讃岐にある。おっとここまでは、言い過ぎか。



ここをクリツクして

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| 社長日記 | 09:07 AM | comments (0) | trackback (0) |

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