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友近くから記憶の彼方のあの日を持って
留守に、「(仏生山町)神宮寺の堀桂二さん」から電話があったと、若い社員さんから伝言があった。「あのホリ」だと、すぐに分かり折り返し電話した。「退職して実家に帰ったから、挨拶に行きたい」と言う。ナンダなんだ、わざわざ挨拶とは、穏やかならぬ事態かと思いきや、脳梗塞や心臓を患い、九死に一生を得たという。日時を取り決め、来社願うことにした。

19日の土曜日は、早朝から「ライオンズ農場(高松栗林LCと高松第一小学校との子ども体験学習)」の草刈りと、サツマイモの収穫をした。3台の草刈り機で周りの草を刈り取り、下準備が整い大勢が集まって収穫をはじめたため、私は「来客があるから」と、L藤本尊載(青少年・市民奉仕委員長)に断って、上福岡町の農場を後にした。

約束の時間の30分前に、彼は来社されたようだ。私は着替えて、急いだつもりだが、やはり約束通りの時間になってしまった。汗をかいての着替えは、シャワーの時間等、自分が老いたことも手伝ってか、なかなか思うようにならない。さぬき弁で、「はがいたらしい」というのだが、われながら思うようにならないことに、自暴自棄になる。

長く待たせたが、堀桂二が待っていてくれた。開口一番「良かった会えて」と言われたのにも、またまた驚いた。大病という後遺症は、全く感じない。左手先が麻痺していて、モノがつかめないという。話す言葉には、問題が無い。医者も、回復ぶりに感嘆したという。本当に高校卒業以来とは言わないが、高校卒業からなら48年ぶりにになる。

彼とは、小中高とご学友であります。「感謝を伝えに来た」とも言うので、これまたビックリ。龍雲中学校から一緒に高松商に入学したのは、確かに堀桂二の他には、男子が十河照一や小川秀憲、水津繁美や中原洋二、女子は亡くなった豊田由美さん、太田悦子さん、山津悦子さん、武田幸子さんらがいた。

堀桂二とは、転任して来た県ハンドボール協会理事の蓮井先生に薦められて、「ハンドボール同好会」を結成した。その時に、中学校でハンドボールをしていた私が堀桂二を誘った。3代目、小林義昭校長の英断であった。私は二年から進学組へ移ったので、その後は堀桂二や渡辺縣治が中心でやってくれた。そのタネが実り、今では男子の後に発足した女子ハンドボール部が、日本一に輝いている。それも連続で。

そんなことを思い出していた私だが、彼が意外なこと、つまり私が忘れてしまっていたことを言い出した。高商受験の前に、拙宅へ来て受験勉強をしていたと言うのだ。その折りに、母親が提供した「ラーメン」が美味かったという。世話になったからと、贈答用線香を持参して。確かにその頃はうどん麺だけでなく、「ラーメン麺」も作っていた。そう言われてみれば・・・。

彼は高商卒業後に、どこだったか忘れたが大企業に就職をした。京都以外は、家族で転勤したという。まさに昭和の企業戦士の一人だ。仕事では、「高商卒業」で随分得をしたという。退職もし、病気も良くなったので、友達や世話になったところへ挨拶へ行くという。私のように、高松で生まれて高松で仕事をしているモノは、これほどありがたいことはない。

わずか1時間程度の会話であったが、私が完全に忘れていたコトを、彼の言葉で思い出した。思い出したと言っても、「磨りガラス」がかかったような状態で、カラーでくっきりではないが、友近くから記憶の彼方のあの日を持って来てくれた。今度は、堀桂二の家を訪ねよう。クルマなら僅か10分程度の距離、何だか嬉しいような恥ずかしいあの頃を、堀桂二さんが持ってきてくれた。



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| 社長日記 | 08:39 AM | comments (0) | trackback (0) |

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