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8月は15日と25日が自分の中の記念日と旧日本軍の小野田寛郎少尉
8月15日は終戦記念日、日本が連合国に負けたことを、昭和天皇がラジオで国民に知らせた日であります。また25日は、父茂が病魔に負けた日です。24日夕方、思い出したように墓じまいに行きました。墓じまいと言ってもお墓をなくすことではなくて、お盆のために飾り付けた灯籠等を片付けるために行きました。

父親が亡くなったのは、昭和37年8月25日。今から57年も前のことになります。同じ年の母サチ子は37歳、私は10歳妹の恵三子は6歳でした。夏の暑い日が、葬儀告別式でした。高徳寺の蝉がガンガン鳴いていました。今のように40度に届こうかという気温ではなかったのですが、暑かった記憶が鮮明に今でも残っています。

残念なことに闘病中の父親と、話しをすることはほとんどありませんでした。肺がんを患っていた父親は、痰が絡んで随分苦しそうでした。私が背中をさするのですが、若かっただけに進行も早く、随分苦しんで彼岸に亘りました。私は少しでも家の中を明るくしたいと思い、父親にも語りかけていました。「ノブヒロはおしゃべりやの」と言われる始末。

10歳の私に言うことがなかったのだと思いますが、父親と話しが出来なかったことが悔やまれます。翻って今の私、二人の男の子と話しをしていません。こうして私も、やがて彼岸に亘るのでしょうね。もう一つ、なぜだか思い出すのは、フィリッピンのルバング島で旧日本軍の小野田寛郎少尉が見つかり、1974(昭和49)年私が大学生の頃ですが、およそ30年ぶりに日本へ帰国されたことです。

小野田さんは陸軍中野学校の出身。「生きて虜囚の辱めを受けず」とする戦陣訓の教えとは異なり、中野学校の一番の目的とするところは、最後の一人になっても戦え、玉砕してはならず捕虜になっても死んではいけないとするもので、主力の撤退後も任務を全うするよう教え込まれ、反撃に備え敵陣内で諜報を行う残置諜者(ざんちぼうじゃ)となるよう叩き込まれた。

帰国後小野田さんは兄のいるブラジルへ渡り、牧場経営をはじめます。その後小野田さんは結婚をし、日本では子どもたちに「生きる意志の大切さ」を伝える小野田自然塾を開塾。2014年91歳で亡くなりました。当時の米紙ニューヨーク・タイムズは、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」と世界に発信しています。なぜか、セットで思い出す8月の出来事です。


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| 社長日記 | 09:48 AM | comments (0) | trackback (0) |

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