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平成は四国に福音をもたらせた
地元四国新聞の「令和新時代へ」という特集記事に、ふと目が留まった。高速自動車道「高松道」の誕生から、懸案だった東讃の暫定2車線区間の解消が、平成最後の平成31年3月にかなった。やっと、高速自動車道の体をなしたように思います。高速自動車道の対面通行は、思い出しただけでぞっとする。

四国内の高速自動車道は、部分的に工事が進み、やがてそれがつながって今日を迎えている。まず昭和62年(1987)に、三島川之江(愛媛県)-善通寺(香川県)間が開通した。翌年の昭和最後の63年には、瀬戸大橋が開通し、バブル経済が崩壊した平成4年(1992)に、善通寺-高松西間が開通し、高松から瀬戸大橋を経由し、岡山へ行くことが出来るようになった。

今でも鮮明に覚えているが、子どもらから「おとうさん岡山のラーメン食べに行こうよ」と誘われて、「息子よ高松のステーキにしよう」と答えたことを昨日のように覚えています。この頃の兄弟は仲も善く、損得勘定を共有していた。瀬戸大橋の通行料金が、片道一万円でした。

それでも瀬戸大橋の開通した年や次の年は、全国からの観光バスが、瀬戸大橋の橋脚「与島」に集合していました。これによって、県内の観光地も大きな恩恵を受けました。瀬戸大橋の観光効果はやがて下火になり、嘘のように観光バスは減りましたが、瀬戸大橋がもたらす経済効果はその後も続いています。

平成13年(2001)には、高松中央-板野(徳島県)間の完成で、東讃にハイウエー時代が幕開けし、徳島、関西圏との交流が盛んになりました。徳島から先は、鳴門大橋、淡路島、明石大橋で、兵庫県とつながり、JR四国が、JR四国バスにやられる事態が到来しました。大阪のテーマパーク「ユニバーサルスタジオ」へは、若者のバス利用が増えました。

平成15年(2003)3月、高松自動車道全通。最後になった高松中央-高松西間が完成し、鳴門(徳島県)-川之江ジャンクション(愛媛県)間の全長124.2キロの高松道がつながったのです。当時高松西から高松中央インターをつなぐルートは、大きくカーブを描き、危険を伴う計画をするのは誰だと馬鹿にしていました。それが、高速道路の下道計画が、それを要求したと知ったのです。つまり高速道路真下に、3車線の東西道路が出来たのです。

一方懸案だったのが、先に書いた東讃の暫定2車線の解消です。当初計画では平成26年に完成の予定でしたが、民主党の事業締結で、平成最後まで尾を引きました。政権の交代で、4年も先送りになったのです。「コンクリートから人命」というような標語も、言われていました。前原国土交通大臣の主張で、八ッ場ダム計画が一時工事中止になった頃です。

「狭い四国、そんなに急いでどこへ(天国)行く」という交通標語も、その当時はやりました。私も狭い四国に高速自動車道がいるモノかと、出来る前は疑心暗鬼でしたが、完成すると結構使います。同時に高速バス路線が、とても便利です。トイレもついていて、時間的にもマイカーと、さほど遜色がありません。高速道路、様々です。便利になり、経済効果も高まりました。

極端な例かも知れませんが、東南アジアから高松空港へ降り立って、数日後には松山空港や、広島空港から帰路につくというルートも出来上がっています。いろいろな可能性を広げる「高速公共交通網」、残るは四国新幹線構想です。生きている内に、使ってみたいものだ。


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| 社長日記 | 08:53 AM | comments (0) | trackback (0) |

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