興味深い標題の講演が、23日の勤労感謝の日、香川県民小ホールで開催されました。高松城天守再建の構想に、大西秀人高松市長も熱心で、NPO法人も精力的10万人賛成署名を集めています。私も署名しました。中心人物は、地域活性化伝道師古川康造丸亀町商店街振興組合理事長や、料亭二蝶の徳永孝明氏、花樹海のオーナー三矢昌洋さんら、そうそうたる人物が名を連ねています。
それも今日の、三浦正幸(広島大学名誉教授)氏の話を聞いて納得。高松城天守は、規模からして1位の名古屋城に次いで全国2位の大きさと推定されているから。つまり、天守再建の価値のある城と言われています。因みに「天守」と言えば「天守閣」が一般的ですが、この天守閣という呼び名も「高松城」が全国初だそうです。
江戸時代の平城(山城に対して)は、全国に200あったとされるが、本当の平城(何を根拠に本当というのかは不明)は、20だけという。高松城も勿論平城。もう一つ高松城は3大水城(海城)といわれているが、高松城の手本になったといわれている「小倉城」と隣愛媛県の「今治城」、そして「高松城」の3つ。
歴史的に建築的に、専門的なことはにわかに理解できませんが、そもそも高松城は、天正16(1588)年に、豊臣家の家臣であった生駒親正によって築城が開始された城郭。慶長10(1605)年頃、生駒一正の時に創建完成。生駒家がお家騒動で出羽国矢島に転封されたのち、松平家が入封します。初代松平頼重、二代頼常は、城の増改築に着手する。
正保4(1647)年頃、松平頼重が修理。この間わずか40年、城の耐久性から40年はまだ新築の範疇。そして寛文10(1670)年、頼重が再建している。ここで三浦正幸(広島大学名誉教授)氏が推定するに、当時の関西四国方面は、材木が極端に不足していた。余談だが、徳川家康が江戸に拠点を移したのも、このことが大きく関係していたという人もいる。
(PHP文庫竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける(2013年10月)」と「日本史の謎は地形で解ける[文明・文化編](2014年2月)」と「日本史の謎は地形で解ける[環境・民族編](2014年7月)」)の3部作は実に興味深い。ここにかかれている。
これから三浦正幸氏は、この時代の築城は寺院などの古材の使い回しがあって、頼重再築までは、改築の連続で短期間の寿命になったのではないかという。松平頼重が築いた天守は、3重4階+地下1階の5層構造。最上階が、一つ下の階よりも張り出して作られる「唐作(他に例がないという意味)」であり、別の資料では「南蛮造り」とも書かれているが、いずれにしても非常に珍しい城らしい。
歴史的建造物である高松城の復元には、文化庁との攻防があるのですが、いまから30年前にコンクリート造の高松城計画があって、文化庁に申請を出したが不許可。当時から今日まで文化庁の基準は、図面が残っている城の再築だけを認めている。これだと、大東亜戦争で焼失した4城のみとなる。
ちなみに幕府の監視下にあった天守で、5重天守を造るには50万石以上の大名か中納言以上の地位をもつ者に限られたようで、4重天守もそれに次ぐくらいの制限があった。その中で高松城は、1階部分が5重の天守より大きく、それでいて3重では、普通バランスが悪くて城にならない。それなのにケンブリッジ大学図書館に収蔵されている高松城の写真は、実に美しい。
これからは文化庁の基準も変わり、設計図面がなくても発掘調査や、写真、学者の論文などを総合判断して許可を出すかも知れない。また木造とコンクリート造の違いだが、木造であれば1千年も改修で持つが、コンクリート造では、地震もあって、100年は無理だと三浦正幸(広島大学名誉教授)氏は語る。さらに氏は突っ込んで、10年以内、フシだらけの檜で造れば今言われている費用の20分の1、40億円もあれば外は出来るだろうと断言。
これを聞いて私は、次は「高松城天守の復元」に汗をかいてみることにしました。平成乙女の像も、支払のことは残っているが再建は終わった。四国新幹線と高松城天守、これからの楽しみが出来ました。40億円であれば、「クラウドファンディング」が良いでしょうね。ちょうど良い、サイズ規模であります。