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高松空襲から73年犠牲者に鎮魂の祈り
1945(昭和20)年7月4日未明の高松空襲の犠牲者を追悼する慰霊行事が、3日高松市中野町の市戦災犠牲者慰霊堂「六角堂」で営まれた。慰霊行事には遺族や関係者のほか、浜田恵造香川県知事や大西秀人高松市長ら約130人が参加したと報道されている。遺族の高齢化などで、参加者が減少している。

あれから73年、高松空襲で旧市街地の8割が焦土と化し、1359人が亡くなった。アメリカ空軍B29の総攻撃が、軍事施設もない高松市街までもなめ尽くした。幸いなことに原爆の攻撃はなかったものの、その惨状は目を覆うものであった。偶然にも数日前、國方秀昭(クニカタ代表)氏から、「高松空襲戦災誌(昭和58年3月31日発行)」の寄贈を受けたところであります。

最近つとに歴史に感心をよせる私でありますが、4年を掛けて脇信男市長の肝いりで、800ページもの記録誌を作り上げた当時の先人に、頭が下がります。パラパラとめくる程度の読解ですが、70ページに偵察飛行隊に関する記述がありました。昭和20年6月、千葉県の「下志津飛行師団」で結成された「独立第二十八飛行隊」が、高松に派遣されたときの記述です。

部隊は約五十人で、仏生山町の円光寺を宿舎とした。この飛行隊は第100司偵(司令部偵察機)三型を五機保有し、明野戦闘機隊と協力して、土佐沖の米機動隊の索敵任務に従事した。索敵は肉眼によるもので、夜明けから薄暮まで交代で出勤し、土佐沖三百キロメートルまでの範囲を捜索した。しかし、期間中に米機動部隊との遭遇はなかった。

資料には米軍側の資料も翻訳されて、本文共に掲載されている。戦時下の高松、高松空襲、空襲後の高松、戦後の高松、復興期の高松等、興味が尽きない内容が網羅されている。また写真も、当時の新聞記事も面白い。定価がないので、高松市が関係先へ寄贈したものの一冊だろうか。

空襲により、消失した神社・寺院・教会等の441ページには、北古馬場町の松野家の菩提寺「極楽寺」もある。住職が、「焼けて何の記録もない」というのは本当のことのようだ。時間を掛けてゆっくりと、今は「明治維新」関係の本を読んでいる。この三巻が終われば、この「高松空襲戦災誌」に取り組みたい。











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| 社長日記 | 10:19 AM | comments (0) | trackback (0) |

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