3月27日に沖縄入りした今上天皇皇后両陛下は、戦没者慰霊から、国立沖縄戦没者苑では、沖縄戦で亡くなった18万人の遺骨が納められた納骨堂の前に白菊を供え、深々と頭を下げた。また28日には日本最西端の地の与那国島を訪れた。敢えてこれまでいけなかった僻地へ、足を運んでいるように見える。
今年6月には福島県を、8月には北海道の利尻島へも赴く。出来ることなら、北方領土へも行くぐらいの勢いを感じる。来年5月の退位に向けて、後継者へ、先帝の背中を見せているように私は思う。この姿勢は、昭和天皇から受け継がれたものであることは、言うに及ばない。敗戦からの復興を応援するように、昭和天皇は行幸を重ねられた。
その面影の一端が、JR原宿駅に今も残っています。北朝鮮の金正恩最高指導者が中国へ行った直近に使ったような専用列車、菊のご紋が入った「お召し列車」が、原宿駅から出ていた形跡がいまも残っている。その頃の全国行幸は、鉄道が唯一の手段であった。これに乗って昭和天皇は、東奔西走されたわけだ。この状況を、今の天皇陛下も目にしている。
ある講演で、話を聞いた。今日の新聞でも、「太平洋戦争で激しい地上戦の舞台となり、戦後も米軍施政下におかれた沖縄の苦難を忘れてはいけないという両殿下の強い希望で今回の沖縄訪問が実現した」と書かれているが、私が講演で聞いた話とは少し違う。沖縄の米軍駐留をGHQに懇願したのは、昭和天皇陛下だったと言うのです。
マッカーサー連合国司令官は、戦争処理が終わった日本から早々帰ろうとしていた。それは本国の意向と合致していた。駐留はあくまでも、戦後処理の短期間であるべき、これは連合国各国の合意事項でもありました。この時、昭和天皇とマッカーサー連合国司令官が極秘で会談をしたというのです。
昭和天皇は、アメリが軍にいてもらわなければ、沖縄は中国に占領されてしまうと心配した。時にマッカーサー連合国司令官は、平和憲法が出来たのだから武力を持たず、武力を持つとかえって戦争を呼び込むと天皇へ進言した。それでも昭和天皇は、戦前の原理主義の塊のような陸軍が復活し、腰抜けの海軍ではこれから先の日本を外国から守ることが出来ない。マッカーサー連合国司令官の人柄もあってか、天皇は懇願したと聞いた。
そうこうしている間に、東西冷戦がはじまり、1950年には朝鮮動乱が勃発した。ここでアメリカは、天皇の言葉に耳を傾け始めた。マッカーサー連合国司令官が自国を説得した。実務としては、日本国が一方的に嫌がるアメリカに頼むのだから、不平等協定は当然のことであり、国会審議のいらない行政協定としてスタートしたのが歴史だと言う。
その後のマッカーサー連合国司令官のアメリカ議会での議事録を見ても、マッカーサー連合国司令官は昭和天皇を認めていた節がある。昭和天皇も、マッカーサー連合国司令官に好感を持っていたのではないか。朝鮮動乱の最中でも、マッカーサー連合国司令官は日本韓国間を日帰りだったと聞く。決して、日本を離れようとしなかった。
今の私は、現在の今上天皇陛下の心の内は勿論計りかねますが、先に書いたように「後継者へ、先帝の背中を見せている」特に、新皇后へも「体に気をつけておきばりやす」と態度で示し、父親(昭和天皇)の意志をも次へ伝えようとしているとしか思えない。われわれは偉大な天皇を頂き、象徴とあがめ、これからもともに歩みたいと請い願うものであります。