郷土の星・樋端久利雄氏のことを調べれば調べるほど、いろいろなものが出てくる。この「ブーゲンビリアの花 山本五十六長官と運命を共にした連合艦隊航空参謀樋端久利雄の生涯」は今から25年前に上梓されたもので、先の「ソロモンに散った聯合艦隊参謀 樋端久利雄」とはまた一線を画すレベルの高いものだ。
先の小欄にも書いた通り、私が樋端久利雄氏を追うのは今月21日から、オイスカINTERNATIONAL「ラバウル・エコテック研修センター」へ行くことから執着をしている。昭和18年4月18日(日)山本五十六長官をはじめ11名搭乗機は、ラバウル空港から離陸して、まもなくの7時40分頃ブーゲンビリア島のブイン上空付近において敵戦闘機十数機と遭遇、空戦陸攻一番機は火を吐きつつブイン西方11浬(カイリ)密林中に浅き角度にて突入と機密電報に記録がある。
この時、樋端久利雄航空甲参謀も山本五十六長官と一緒であった。この事件は1ヶ月以上極秘扱いとされ、もちろん樋端久利雄航空甲参謀の亡骸も、現地で荼毘に付され、無言の帰国をすることとなった。大本営及び海軍省の発表は、「連合艦隊司令長官、海軍大将山本五十六は、本年4月前線に於いて全般作戦指導中、敵と交戦飛行機上において壮烈なる戦死を遂げたり。後任には、海軍大将古賀峯一親補せられ既に連合艦隊の指揮を執りつつ有り」と。
さらに樋端久利雄中佐の戦死が横須賀鎮守府から発表されたのは、死後5ヶ月近くもたった9月9日であった。東京での葬儀が終わると、故郷香川県大川郡白鳥本町(現在は白鳥町)で町葬が行われることになり、分骨された遺骨は親友の池上二男中佐の胸に抱かれて無言の凱旋をした。
昭和18年9月13日午後1時28分、連絡船が到着した高松港桟橋には、県知事始め多数の人々が出迎え、東京から来た内永官太町長らに守られて高徳線・白鳥駅下車、懐かしのわが家へ帰った。故郷の英雄として既に有名であり、山本長官と運命を共にしたその秘密はもはや公然のものとなっていたと思われる。
今次大戦に引きずり込まれていった政治の責任、即ち輔弼(ほひつ)の任にある官僚としてこの過程に関わり合った海軍首脳部の戦争責任は、結論として陸軍に比して軽いとか、従であるとか言う筋合いのものではなく、その度合いは全く同等で有り、まさに共同正犯である。
それにつけてもこれは軍部だけの問題ではないが、明治になってから日本の政治をリードした指導者に、公正な国際理念と広い視野に立った独創的な世界戦略が欠如していたのではなかろうか。国際連盟脱退然り、東亜新秩序建設は受け売り思想であり、三国同盟参加は全くのミスジャッジであったし、その延長として戦争という最も不幸な事態を招く結果となった。
これからの日本は決して自国のエゴを他国に押しつけることなく、相互の信頼と理解の上に国際社会の一員としての責務を果たさなければならない。衣川宏のあとがきであるが、今の世界が抱えている問題を、日本が手を打とうとしている政治課題を、輔弼の任にある政治家や官僚に国民は託すしかないのだが、46回衆議院議員選挙が間近にあるのは、単なる偶然でもなさそうだ。