日本国中がこれまでに経験したことがないと言われるほどの寒波と豪雪に見舞われる中、実に穏やかな陽光が差し込む自宅仏間に六親眷属集まりて、わが母松野サチ子の13回忌法要を執り行いました。大正14年生まれですから、ちょうど100歳になります。戦争の経験があり、肥後の国・熊本生まれの肝っ玉母ちゃんでした。熊本に赴任していたわが父親と知り合い、惚れて四国まで嫁入りました。
37歳で後家(夫が肺がんで病死)になり、その後女の細腕で、私たち兄妹を育ててくれました。家業の製麺業で生計を立て、男女二人の子供たちを大学・短大まで出し、6人の孫に恵まれました。製麺業は後継者の私が大卒から14年間続けましたが、昭和の最後に廃業し、私はこれまで2足の草鞋を履いていましたが、ここから不動産業に専従し、サチ子は廃業に伴い製麺資材を購入してくれた社会福祉法人竜雲学園で、若者の指導者として60歳から10年間働くことになりました。
自身も働きながら、同居の孫2人の面倒を楽しそうに見ていました。スポーツ少年団の練習にも付き沿い、下の子が東京武道館へ行った際には東京まで出かけていました。孫の前の趣味は、大輪の菊などを大量に咲かせ、各方面に提供していました。そのため秋には、近くの池の底土を持ち帰っていました。ほとんどの力仕事は、私の担当でした。今振り返れば、もっともっと役に立っていたら良かった。
その後は竜雲学園でフルタイム働き、近くの畑で農作物を作っていました。そして2013(平成25)年2月12日86歳の生涯を閉じました。最後は教え子らが勤務する特別養護老人ホーム竜雲学園舜虹苑で、息を引き取りました。少なくとも私は、母サチ子はこの仏生山で幸せな『らしい人生』を送ったと思っています。竜雲学園舜虹苑のみなさまには感謝しています。母体の法然寺さんへも感謝です。
今日は、本当に近しい身内だけでの法要でした。前回参加の広瀬勉様も昨年鬼籍に入られ、サチ子の縁者は日を追う毎にいなくなりますが、私が元気であれば次の機会も是非やりたい。賑やかなことが好きだった母親孝行は、次の機会も私がやります。改めて母の恩を思い出した回忌法要でした。
この後吉田勝昭先輩から、両親への思いを綴ったメ-ルが届きました。
歌「千の風」では、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 秋には光になって、畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる」
この歌は恋人や夫婦間、兄弟、友人に対するものだと思っていましたが、もっと深く広いですね。私の母親が死ぬ前に「心配するな。お前や子供たちをいつも見守ってあげるから・・」と言ってくれたのを思い出しました。世間の両親の考えはみんな同じ思いなのでしょうね。両親への感謝を思い起こし、これからも毎朝、仏前に燈明とお焼香は続けてまいります。2025/02/09