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沖縄復帰から50年
1972(昭和47)年5月15日、沖縄はアメリカの統治から解放されて、本土復帰を果たし、今年がちょうど50年という節目を迎えます。私も沖縄が好きで、何度か行きましたが、一番の衝撃場面は大学一年生の時、最初の8組のクラスルームで沖縄の高校から来た女子に出合った時です。沖縄から来た子だからそこそこ優秀なのは想像出来て、彼女の自己紹介も「フムフム」と聞いていたのですが、最後に「これが私のパスポートです」と言ってそれを、見せてくれました。

勿論パスポートなど見たことがなかった私は、『日本国』と書かれたパスポートに驚きましたが、それ以上に同じ日本人なのにパスポートを持たないと東京へ来られない彼女に、同情と義憤を感じたのを今でもよく覚えています。彼女に最初にあったのは、沖縄復帰の2年前でした。私は多感な18歳で、在学中に「沖縄へ行くんだ」とこの時、心に誓いました。

沖縄は私が言うまでもなく、先の大戦で国内一番の被害を受けた土地です。その後嘉手納基地など多くの基地が置かれ、50年経過した今でも犠牲の地であります。今でも辺野古への基地移設と称して、新しい基地が建設されようとしています。少なくても今の時代、せめて基地負担だけでも日本中に分散すべきですが、幸か不幸か中国の台頭で、地政学的意味からも、沖縄はより一層重要な安全保障の要所になっています。

私は返還の翌年だったと思います、はじめて沖縄へ行きました。学生で時間があったのと、お金がなかったことから、鹿児島から船に乗って那覇港へ入りました。24時間かかりましたが、二度と船で行くことはあるまいと思い、船旅を楽しみました。これほどまでの長時間船旅は初めてだったことと、お風呂があって、揺れる風呂に初めて入りました。これも青春の思い出で感動しました。

入学早々の8組ホームルームからかの『沖縄女子』と、その後校内で出合うこともなかったのですが、3年後何と沖縄国際通りの喫茶店の前でバッタリ再会したのです。私は沖縄の高速道路建設で本土から来ていた先輩と一緒で、彼女と会うことはその後二度となかったのですが、この時悪い冗談で「パスポート忘れた」と実にしょうもないことを言って分かれたことを、随分後悔しました。

暫く滞在して、その間高速道路現場の宿舎に泊めてもらいました。『キャンプ キンザー』の前でしたが、基地前の繁華街には『日本人歓迎』の看板があって、ビックリしました。おまけに夜中に、国道を戦車が走行していました。これが復帰直後の沖縄でした。車をお借りして移動をしたのですが、この時はまだ『右側通行』でした。沖縄での運転は緊張していたためかさほど違和感はなかったのですが、高松へ帰って原状回復に時間がかかりました。

その後何度か沖縄や、宮古島・石垣島や諸島へ行きましたが、そうそう奄美大島(鹿児島県)へは随分後の話ですが、先の小欄で紹介した故川北哲氏らと、中小企業家同友会の沖縄総会帰りに立ち寄ったりしました。がやはり、復帰直後の沖縄を一番よく覚えています。

復帰前には甲子園の土を、那覇港入港前に海に捨てていた場面をTVで見たことがありました。そこでは、首里高校の高校球児が泣いていました。その沖縄出身の東浜巨投手が11日、ソフトバンク相手にフォアバール2つで沖縄県人初のノーヒットノーラン記録を達成しました。何も言えない沖縄、本土復帰から50年、私も70歳になりました。

川北哲さん72歳で逝く

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| 社長日記 | 08:53 AM | comments (0) | trackback (0) |
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