2021年11月30日(火)午後1時半より、高知市内の会場で、株式会社高知ハウス代表取締役会長和田浅吉氏のお別れの会が行われました。6月17日の逝去で、葬儀は新型コロナウィルスの感染拡大に伴い身内で執り行う旨の連絡があり、本日のお別れの会の案内を心待ちにしていました。私にとって人生の先輩であり、かけがえのない師匠でありました。
午前6時に出社し、午後6時まで仕事をする人で、仕事大好き人間でした。57歳で銀行を早期退社し、故郷の地で『㈱高知ハウス』を創業し、今日までの26年間、高知では珍しかったアパート・マンションの賃貸管理をはじめて、まもなく1万戸になるまでに管理戸数を増やしました。業容の拡大に伴い、雇用する社員も増えていきます。
「高知は田舎だから」と前置詞を置きながら、日祝日を定休日にしていました。心懸けている全従業員の幸せの追求からも、どうしても日祝を休みにしないと人が集まらないと、言い訳のような『自己主張』を。温和な笑い顔に似合わず、頑固一徹のところがありました。前職が銀行マンというのも、その後の経営方針に大きな影響を及ぼしていたと思います。
損得勘定では損ばかり、利他が利己の前にあって、まずは従業員のことそしてお客様のこと、その次ぎに自分のことがあるかないか。狭い高知にあって、賃貸管理という牙城を築き上げていました。業界への新規参入ではありましたが、賃貸売買仲介が当たり前の周辺宅建業者からは奇異な存在と映ったようで、決して心良くは思われていませんと自らが発するほどでした。
そのため83歳であれば、褒章や叙勲の栄に浴してもおかしくないのですが、標題にあるように『無冠』を貫いていました。先の伊能忠敬(いのうただたか)も50歳過ぎての第二の人生、和田浅吉さんも第二の人生が生涯を誇れるものだったのでしょう。コロナ前の品川プリンスホテルが、日管協行事の際の四国組不動産業者の定宿でしたが2人の朝食は、いつも6時半でした。思い出は尽きませんが、私には幸せな時間でありました。
無冠の四国代表としては、先に鬼籍入りした白石富祥氏が新居浜にいました。2005(平成17)年逝去ですから、あれから16年の時が流れています。3人の年齢では和田浅吉さんが年長でしが、仲良くさせて頂きました。16年前は愕然としました。私も50歳前半のことで、世の無常を感じました。その白石富祥(とみなが)さんの家族も、孫のお嬢さんもお越しでした。100分近く、式場でよく頑張りました。
またまたコロナ前ですが、アパマンショップの全国大会、いつも和田先輩が隣の席を空けて下さっていました。私もこれから頑張って、浅吉さんのいる天国へ必ず参るように精進します。厚かましいお願いですが、臨席の確保をお願いして、しばしのお別れです。でも、寂しくはありません。あの笑顔が、ずっと一緒です。