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浪漫溢れるガソリンカー(塩江温泉鉄道)物語
ガソリンカーの愛称で親しまれた塩江温泉鉄道は、1929(昭和)4年に開業し、仏生山-塩江間(16㎞)を結ぶ列車として、塩江温泉郷の繁栄を支えた。時代は米国で、『世界恐慌』が勃発した欧米で恐慌の嵐が吹き荒れ、国内でも1923(大正12)年には関東大震災、1927(昭和2)年には国内金融恐慌も発生していて、決して余裕のある時代でなかった。

塩江温泉鉄道の軌間は、非電化の列車としては珍しい標準軌(1435㎜)を採用している。エンジンは水冷六気筒のガソリンエンジン、台車は『片ボギー式』と珍しい構造を採用しており、自重6.5トン、定員40名、長さ8メートル、幅2.5メートルと小型だった。駅数は12で、運賃は一区間5銭、仏生山-塩江間16㎞を約50分かけて走行したと記録には書かれている。

終着駅である塩江駅周辺には、演芸場付きの温泉旅館などの観光施設が多くあり、菊人形や鵜飼など、季節の催し物を頻繁に開催していた。『四国の宝塚』として専属の少女歌劇団を養成(常磐ハワイアンのフラガールのような)し、華やかな催しを連日行っていた。しかし戦中になると、ガソリンの統制や台風による橋梁の破損などにより経営が困難となり、開業12年後の1941(昭和16)年に廃止された。

廃線後、レールなどの鉄道施設は台湾製糖株式会社へ、車両は旧満州国首都の新京(現在の長春)に送られ、市電として利用された。廃線後80年となった現在でも、ユニークな車体からコアなファンも多い。仏生山駅から伽羅土(からと)トンネル手前まで、真っ直ぐに南下する道は廃線跡をそのまま道路として転用されており、『ガソリン道』の愛称で生活道路として利用されている。

私も流石に当時の繁栄は知らないが、塩江温泉鉄道に勤務していたというオーナー様の話を懐かしく聞くことがあった。オーナー様曰く『エリート職場』で、なかなか採用されるモノはいなくて、それが自慢の一つでもありました。残念ながら出発の『仏生山駅』についての記録は、いまだ目にしていませんが、コトデン琴平線仏生山駅を下車して、乗り換えたモノと考えています。

2018年度に香川高専の授業の一環で『ガソリンカー復元プロジェクト』をおこない、マップ班と模型班に分かれて『塩江温泉鉄道』の研究をしました。模型班は消失したと考えられていたガソリンカーの当時の図面を、鉄道博物館(埼玉県)で発見し、それをもとに三面図の復元、CGモデリング、3Dプリンターを使った模型の復元を行いました。マップ班は、現在の仏生山駅から塩江道の駅までの道のりを巡り、遺構マップを作成しています。

この『ガソリンカー復元プロジェクト』は、高松空港へのLRT(次世代型路面電車)計画へ引き継がれるかも知れません。大西秀人高松市長は、「多核連携型コンパクトエコシティー」構想と、高松空港へのLRT(次世代型路面電車)計画を次世代高松市構想として位置づけています。新型コロナウィルス後のまちづくり、私が見ることがないかもしれませんが、大いに期待しています。

同時に最近思うことですが、この塩江温泉鉄道にしても終着駅の塩江の記載はあっても、出発駅の仏生山駅や仏生山町に関する記録はありません。聞くところによると、『仏生山町誌』は存在しないと言うことです。歴史は、1年ごとに陽炎の如く消え去って行くものです。塩江のように戦前賑わった街の歴史があって、その頃も今もそこそこ隆盛を保つ仏生山町。何としても町史を作りたいモノです。

以前にも公開したガソリンカー資料

| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=5365 |
| 社長日記 | 09:53 AM | comments (0) | trackback (0) |
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